広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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裁判官の存立基盤

2019.02.02

 裁判官になって最初に直面した「哲学的」(?)問題は、多分、誰もがそうであろうと想像しているが、将来「死刑」に処しないといけない事件に直面した場合、自分がそれに耐えられるだろうか、ということであった(注1)。が、私にとってそれに匹敵する疑問として脳裏から離れなかったのは、どうして国民による選挙などによって選ばれたわけでもない(民主的基盤を持たない。注2)私が、国民に由来する(注3)国権の行使として、人の生命や身体の自由、財産を奪うなどの判断(裁判)ができるのか、という問題であった。
 この問題については、「死刑」問題ほど切実ではないものの、初任の広島地裁で刑事事件を担当することになった私が日々日常的に行う仕事で直面する問題であった。そこで、私は、赴任後すぐにそのことについて書かれた文献を求めて広島地・高裁の資料室を探したが、適当な文献は見当たらず、考えてもなかなか答えがわからず途方にくれた。そして、自分が裁判官としての仕事をする根拠が見つからないまま日々を過ごすうちに、表面的にはいかにもその権限があるようなふりをして裁判所で仕事をする自分が偽善者のように思われ、自分のことが許せなくなった。
 私は、赴任して間もない春の夜、夜泣きがひどかった長男(司法研修所の後期修習中であった昭和57年11月に生まれた)を抱いて官舎(注4)の周囲を歩き回った際、星空の下に黒ぐろとそびえる広島高裁・地裁・簡裁の建物(広島家庭裁判所は、これらの裁判所が同居する建物とは別の場所にある)を見上げて、なんだか裁判所が「虚業の城」とでもいうべきもののように見え、気が滅入ったことを覚えている。
 結論的にいうと、その後、私が先輩裁判官の言葉などを参考にして得たこの「問題」に対する「暫定的」な答え(裁判官を辞めてしまった今となっては、「最終的」というべきであろうが、この答えに自信がないので、このように言いたい)は、以下のようなものである。
 裁判官は、裁判において判断を避けることは許されず、法律(成文法のみならず慣習法(注5)を含む。法の適用に関する通則法3条、民法92条、商法1条2項参照)に基づいて、法律がない場合は条理(ものごとの筋道や道理)に基づいて、判断をしなければならない(注6。なお、憲法に反する法律は効力を有しないのであるが、本稿では、この点については捨象する)。
 すなわち、裁判官は、認定した事実を前提に、国民から選挙によって選ばれた国会議員が定めた法律またはすでに社会に存在する「慣習」の命ずるままに判断するものであって、裁判官が、民主的(この言葉にも一定の留保が必要かもしれないが、ここでは触れない)に選ばれた国会議員の作った法律または国民が「基準」とすることに異論がない(はずの)「慣習法」に基づいて判断する以上、裁判官に民主的な基盤がなくても裁判をすることができる。ただ、「条理」に基づいて判断するときはその例外となるが、「条理」とは「ものの道理」であるから、その「道理」について、(まともな人であれば)誰もが納得し得るような「理由」を示すことが必要である。そして、この「道理」は、事実の認定についても妥当するはずであるから、裁判においては、事実認定についても、誰もが納得するような「理由」を示すべきである、と。
 なお、認定事実を法律に当てはめるときは、その法律の「意味」を見極めなければならないところ、この見極める行為を「解釈」という。そして、法律の解釈を専門とする法学者の間において、同一の法律(条文)についてさまざまな解釈論が戦わされていることからも明らかなように、「法の解釈」には、どうしても裁判官の判断(明確な判例があれば、大抵はそれに従わざるを得ないが、そうでなければ、多くは法学者の述べる学説のどれかを選択すること)を必要とするが、その判断も、「条理」と同様、「道理」を明らかにする必要があり、その道理も、(まともな人であれば)誰もが納得し得る「理由」を伴うものでなければならない。
 以上のことから、裁判をするに当たって必要なのは、いうまでもないことであるが正しい事実認定(慣習の存否及びその内容についても、事実認定を要する)と、その事実を前提とする正しい法律判断をすることは当然の前提として、事実の認定、法律の解釈及び条理を用いるに当たっては、(まともな人であれば)誰もが納得するような論理的理由を述べること、ということになる。つまり、裁判をするに当たって大切なのは、(上記当然の前提は別として)一にも二にも論理的な理由を書くことであって、それこそが、民主的基盤を持たない裁判官が司法という国権の一翼を担うことが許される根拠(基盤)になる、と考えたのである。
 このような私の出した結論から、私が裁判をする際の法律解釈の方法は、その解釈について誰もが納得し得る理由を示さなければならない以上、次のようなものになると考えていた。
 すなわち、法律の国語的な理解にそぐわない(論理的に説明ができない)解釈はしない。仮に、その法律解釈による判断が、当該事案の解決として妥当性を欠くと考えられても、その法律が憲法に反し、効力を有しないと判断できない限りは(ただし、民事裁判においては、一般条項(民法1条、90条等)の適用により、例外的にその法律の適用が排除できる場合がある)、民主的基盤を持たない司法府が立法府により作られた法律の文言やその趣旨(立法趣旨)にそぐわない解釈をしたり、実質的に国会に代わって立法をするような判断をすることはできない。法律の素直な解釈により政府機関や大企業等が被る不当・不利益は、そもそも法律は、そのような権力(権威)から国民を守るためにあるものであるから当然であるし、逆に、その法律によって一般の国民が被る害悪(国民にとって必要な法律がないことによる害悪を含む)も、悪しき法律を作った(あるいは、必要な立法をしなかった)立法府の責任であり、その立法府(の構成員である国会議員)を選んだ国民が、その最終的な責任を負うべきである(国民は、そのような立法をした、あるいは必要な立法をしなかった国会議員を、次の選挙で選ばず、代わりに、悪法を制定せず、必要な立法をする国会議員を選ぶことにより、その責任を果たすであろう。注7)。
 私は、民主的裁判官(国民主権を重んじる裁判官)を目指したが、以上のような考えに基づいて、決して司法積極主義(注8)ではなく、むしろ、司法消極主義的な裁判官として仕事をしてきたと考えている。
 以上の私の考えについては、当然異論があると思う。
 しかし、私は、最高裁判所の一部の裁判が、上記私の考えとは異なり、ときに、私が思うに、法律の国語的な理解からは不可能な「解釈」をしたり、「解釈」の名のもとに「法」を作ったとしか思われないような判断をすること(つまり、誰もが納得するような理論的理由付けを欠いていと思われること。注9)に異議を述べたいと思う。
 この「異議」の内容については稿を改め、いずれ具体的に裁判例を示して論じたいと考えている。
 
(注1)死刑については一応の答えは用意しているものの、重い問題なので、ここで記すにはもう少し時間をいただきたい。
(注2)下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣により任命され(憲法80条1項)、最高裁判所を構成する裁判官は、内閣の指名に基づいて天皇(最高裁判所長官。憲法6条2項)または内閣(最高裁判所長官以外の同裁判所裁判官。憲法79条1項)が任命し、国民審査を受けるが(同条2項)、それゆえに個々の裁判官が民主的基盤を有するとは、到底いえないであろう。

(注3)いうまでもないことだが、日本国憲法(前文第1段)は、国権の源泉を国民にもとめており(国民主権)、司法権もその例に漏れない。
(注4)初任の広島地裁では、裁判所建物のすぐ裏(北側)に、裁判官及び裁判所職員が住む3〜4階建ての5棟のアパート形式の宿舎が建っていた(現在もあるが、供用廃止となって、住人はいないようである)
(注5)「慣習法」の定義は難しいが、ここでは、ある地域の人々あるいは同業者間において一般に承認されている決まり、とでも言っておこう。
(注6)現在、その効力をがあるか否かについては争いがあるが、明治8年6月8日に発せられた太政官布告第103号「裁判事務心得」(さいばんじむこころえ)は、(難しい文章であるが、私の理解では)①裁判官は、裁判において判断を求められた事柄について判断を拒むことができないこと、②裁判官は、すでになした裁判について弁解しないこと、③判断するための基準となる成文法及び慣習法がない場合は「条理」に基づいて判断すること、④先になされた裁判を、後の裁判の一般的基準としてはならないこと(すなわち、判例法は存在しない)などを定めており、これらは、現憲法下の裁判官も当然に守るべきこととされている(と思われる)。
(注7)日本の立法府は、これまで、主要な実体法(民法、刑法、商法等。「実体法」とは、法律関係の内容を定める法律で、民事訴訟法、刑事訴訟法等の「手続法」に対する用語)の改正を積極的に行ってきたとは言い難いと思われるところ、それは、司法が、本来法律の改正等によって手当すべき問題を、旧来から存する法律の解釈によって解決したことにより、法律の改正等の必要性が小さくなったからだと考えられる。それを評価する向きもあるが、私は、そのことが、立法府が本来なすべきことをなさず、それゆえ、司法が法律解釈において無理をしなければならないという悪循環をもたらした原因になっていたのではないかと疑っている。
(注8)司法積極主義・消極主義の定義も難しい。ここでは、司法積極主義とは、裁判所が法令を拡大解釈することによって、事実上、立法や行政の機能を果たすこと、司法消極主義(原意主義)とは、司法は行政や立法には口出しせず、法律の忠実な解釈によって裁判をすること、とでも説明しておこう。
(注9)最高裁が、政府機関等に有利と思われる「解釈」をしたことも、一般国民に有利と思われる「解釈」をしたこともある。私の周囲の裁判官の間では、このような最高裁の法律解釈についての態度を称して、「最高裁はなんでもあり」だという言葉が飛び交っていた。