広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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このホームページについて

    私、森脇淳一は、平成30年9月末日をもって約35年半勤務した裁判所を早期退職し、同年11月1日から、裁判官時代に知己を得た森谷正秀弁護士の事務所に合流させていただき、同事務所の名称も「森谷・森脇法律事務所」と改めて、弁護士として活動しています。

    裁判官時代、高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、簡易裁判所の民事・刑事・家事・少年事件のほぼすべての分野の裁判実務を経験してきたことを強みに、法的紛争で苦しんでいる皆様のお力添えができたらと願っています。

    そして、このホームページは、私が、弁護士森脇淳一及びその発言(コラム)とともに、私の所属する「森谷・森脇法律事務所」を御紹介するため立ち上げたものです。

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森脇淳一の
コラム

 2024年元旦のご挨拶(年賀状を頂いている方への年賀状の転載)

 

 新年にあたり、皆様のご健康とご多幸、そして、安寧を祈念いたします。
 令和六年元旦
(近況等)
 戦禍の報道に接する度、人類(日本の住民はそうではないことを祈ります)の愚かさを感じます。
 さて、私のライフワークになりそうな後見被害事件の相談(最近は大都市部の首長申立てにより親子が断絶させられたものが多い)が寄せられ、今年はこれまでの専門職後見人(元を含む)に加え、地方公共団体等を被告とする訴訟も提起の予定ですが、いずれも暗中模索の状態です。また、その中で弁護士が不当な後見ビジネスに関係しているように思われる事例に接し問題を感じています。
 弁護士生活も六年目になりましたが、依然、主に、他事務所で受任を断られた法テラス事件等を中心に受任し(過ぎて多忙を極め依頼者から叱られます)ていますが、それらの委任者はある意味「弱者」といえる方なので、変なストレスは感じずにいられるようです。(以上)

 

 このコラムは、比較的最近弁護士として働きだした私が日々感じたこと(エッセイ)のほか、これまでの人生の半分以上を裁判官として過ごしていた間に私が司法制度や裁判実務、裁判所及び裁判官について考えたこと(司法制度論、裁判官論)並びにその基礎となった、私が裁判官になる前及びその後の出来事(半生記)などを書き綴ったものです。

 特に、司法制度論や裁判官論については、できるだけ多くの国民の皆さんに裁判所や裁判実務の実情を知ってもらい、よりよき司法の実現に資したいという思いから書いています。したがって、できる限り専門用語や特殊用語、職業用語(ジャーゴン)は避けたいと思っていますが、その分、法曹関係者にとっては正確を欠くと思われる記述となる可能性もありますが、ご容赦ください。

 所詮、自己満足にすぎないものであることは十分理解しているつもりですが、ご興味のある方はお時間の許す限りお読みくだされば幸いです。

 

   私のコラムを読んでくださっている人の便宜のために、新しく書いたコラムの表題に「New」をつけるようにして頂いたのですが、「New」のマークは、公開後1か月間付くそうです。ですので、1か月に2個以上コラムを公開すると「New」のついたコラムが2個以上現れることになります。そこで、今後は、できる限り「New」が2個以上つかず、しかし、1つもないのは寂しいことから、おおむね1か月に1つずつコラム公開することを目標にしようと考えています(2019年6月9日付記)。

 

 そろそろまた司法制度や裁判官について書きたいと考え、いくつか草稿を書いたのですが、正確を期そうとすると公開を決断するまでには至らず、最後のコラム公開から1か月が経過する2019年11月末の公開は断念することにしました(同月29日付記)。

 

 先日審判のあった比較的困難な国選事件で疲弊したこと、その間に溜めた仕事を片付けなければならないことに加え、2020年5月1日付けコラム(コロナ禍の下での近況)でも書いた事情もあるので、しばらくコラムの更新は「延期」させていただきます(同月31日付記)。

 

  10年前の3.11、私は広島地方裁判所の裁判官会議に出席していました。広島でも少し揺れたのを覚えています。テレビで福島原発の報道を見聞きして、私は、地球人の一人として、原発を止められなかった自分を責め、かつ、打ちひしがれていました。というのも、私は修習生のとき、所属していたキリスト教会の自主的サークル「平和の会」のメンバーの一人として企画した講演会で、関屋綾子さんから、原発から出た使用済み燃料は未来永劫冷やし続けなければならないと教えられ、それは、人類滅亡後の地球の命に対する犯罪行為だと思い、原発は止めなければならないと確信していたからでした。

 しかし、原発が、あれほどまでに脆弱な技術の下に運転されていたとは、当時の私は知らなかったのでした。

 10年目の3.11を迎え、思いを書きました。

令和3年3月11日

 

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