広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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裁判官の身分保障について(3)

2019.02.21

「裁判官の身分保障について」(1)・(2)で論じたところから、私は裁判官の身分保障は万全だと主張すると思われるかもしれないが、決してそうではない。世上よくいわれるように、また、裁判官に対するいくつかの懲戒申立事件からも明らかなように、日本の裁判官の「自由」(注1)には制約がある。この「自由」に対する制約があることが、直接裁判官の身分保障に関わるのかどうかについては異論もあると思う。しかし、日本の裁判官は、一般に、「自由」を行使したことによって、懲戒申立てまでには至らなくても、再任されたくても再任されないとか、判事4号俸以上に昇給しないとか、部総括(裁判長)になりたくてもなれないとか、希望しない任地を示されるなどの不利益がもたらされるのではないかと疑っていることは否定できないから(この点については、あまり異論はないのではないか?)、裁判官の「自由」に対する制約は、私のように最初から再任や昇給・昇進を期待せず、希望任地以外は同意しないという裁判官以外にとっては、広い意味でその身分保障に影響しているといってよいのではないかと考える。
 そして、私が思うに、裁判官の「自由」を制約するために用いられる一番大きな理論(根拠)が、裁判官の公平「らしさ」論である。
 裁判官が、清廉潔白・公平無私であるべきであり、主権者である国民からそのように要求されることは、けだし当然のことである(特定の諸外国に比べて、日本の裁判官の多くがこの要求に忠実であることは特筆してよいと考える)。しかし、「公平」であることと、「公平らしさ」とは、本来全く別物である。すなわち、「公平」は当該裁判官の判断作用に対する客観的評価であるが、「公平らしさ」は当該裁判官の判断作用とは無関係な当該裁判官以外の者の主観的(事実)認識である(注2)。もちろん、法律にも「公平らしさ」を保つための制度が存する(注3)から、裁判官にとって公平らしさは不要だとか、ましてや公平らしさそれ自体が悪いというわけではない。しかし、裁判官が公平「らしさ」を保つために、上記法律に規定されている以外の様々な制約を裁判官自らが課したり、あるいは、ある種の制約ないし圧力を、裁判所の組織(最終的には最高裁判所事務局。注4)等が裁判官に対して課すことを通じて、その裁判官及びそれら制約ないし圧力を知ったその他の裁判官も不自由になっていることが、ひいては裁判官の身分保障に強い影響を及ぼしていると感じている。
 さらに付け加えると、一時、「裁判官国家機関説」(注5)とでもいうべきことがいわれた。それは、私自身、何人かの先輩裁判官から直接言われたが、要は、裁判官の独立が保障されているから、あるいは裁判官の(個人的)良心に従うとして、裁判官それぞれが自由な法解釈をしても、高裁や最高裁が行う法解釈と異なる判断をすると、結局、最終的に負ける当事者(裁判所利用者)にぬか喜びをさせ、最終的に勝つ当事者を含め、双方当事者に上訴の負担(弁護士費用を含む)を負わせるので、一審の裁判官たるものは、高裁や最高裁がするであろう判断と異なる判断をしてはならない、というものである。
 私は、この考えに真っ向から反する忠告を、初任の広島地裁における新任判事補研修の一環として私達に話をしてくださった松本冬樹・元広島高裁長官から聞いていたし(注6)、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職務を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」という憲法76条3項の規定や、先例(前に出された裁判所の判断)が法源性(法的拘束力)を有するとする判例法主義を採らない日本の法制にはそぐわない誤った考えであると判断していた。ところが、どういうわけか、私の周囲の裁判官は決してそうではなかったようである。特に、このような考えを、ほとんどの裁判官が目を通していたある法律雑誌に、ある有力な裁判官(注7)が書かれたこと(注8)は、この考えを裁判官全体に浸透させるのに大いに力があったと思う(私は、最近、地裁や高裁において最高裁の裁判例と異なる判断がほとんどなされず、最高裁の判例は最高裁でしか変わらなくなったのは、この考え方が大きく影響していると感じている)。そして、このこと(多くの裁判官は、「裁判官国家機関説」に従わざるを得ないと考えたこと)も、裁判官に対する大きな桎梏(制約)となり、ひいては、裁判官(司法権)の独立にとって最も守られるべき「法廷における自由」(裁判官が、裁判において判断をする場面における自由)すらをも奪われる契機になったと考えている(注8)。
(「裁判官の身分保障について」完)

 
(注1)私がここでいう「自由」とは、何も憲法に規定された「自由権」など、大上段に振りかぶったものではなく、世の中で普通に暮らしている人が普通にできること、を意味する。私はそれを「市民的自由」と呼んできた。私は、普通の会社員や自営業者などができることが、「裁判官」であるがゆえにできないと言われれば(もちろん、裁判所法52条や憲法99条などが規定する公務員としての制約はあるものの)、それは本当にそうなのだろうかと、一度は疑ってみることにしていた。
(注2)「客観的」vs「主観的」及び「認識」vs「評価」について、一言述べておく必要があろう。まず、「客観」と「主観」であるが、私が高校時代までにきちんと哲学等の学問に触れていなかったせいだろうが、大学の法学部で法律の勉強を始めたとき、一番よく出てくるが、しかし、その意味がよくわからなかったのがこれらの言葉だった。最初に刑法を勉強したときに接した言葉だったと思うが、その後、民法や商法なんかでも「主観説」、「客観説」などという言葉が出てきた。知ったかぶりして使ってきたものの、実際、今でも本当に理解できているのかどうかよくわからないし、法律が異なると、また、同じ法律の中でも場面によって意味が異なるようにも感じる。ここでは、「客観」は外から見た、という程度の、「主観」はその人の内部的な、という程度の意味である(と思う)。「認識」と「評価」は、裁判官になってからよく使うようになったと思う。裁判の基本は、事実を「認定」(認識)し、それを法律に当てはめて「判断」を導くことにあるが、事実の「認識」は、裁判官に課せられているとはいえ、本来誰でもできるし、実際、している(しなければ生きていけない)。しかし、事実を法律にどう当てはめるかの場面では、多分にその裁判官の価値判断、すなわち認定事実が法律に規定された事柄に合致するか否かの「評価」が必要で、それは、判断者である裁判官の専権である、といういうふうに。ただ、事実認定にも「評価」的要素がないわけではないとされているが、この点は、一歩間違えると事実「認定」を誤り、恣意的な判断になってしまうのではないかと感じており、私は、「評価」が苦手(であったのかもしれないが)というより、「評価」はできる限り事実認定に持ち込むべきではないという考えであった。この点は、もっと深く考えた上、できればいつか(私が死ぬまでに可能かどうかわからないが)、私の考えをこのコラムで記したいと考えている。
(注3)民事訴訟法23条、刑事訴訟法20条
(注4)裁判所法上は「事務総局」。最高裁事務総局は、昭和22年の設立当初は「事務局」といわれていたが、その組織が大きくなって、設立当初の「課」が「局」に名を変えたことから「事務局」の上に「総」を付けたにすぎないものと思われ、単に「最高裁判所の庶務を掌」るものにすぎない。私は、決して最高裁事務局に対するルサンチマンを持つものではないと思っているが(裁判の仕事ができず、「雑用」とでもいうべき司法行政事務をさせられる「裁判官」に対しては、裁判の仕事が好きだった私から見ると気の毒だと思えるが、司法行政事務にもそれなりの楽しさがあるのかもしれない)、その正式名称はともかく、その役割からして、その総体としての呼び名は「事務局」で十分であろうと思う。
(注5)この言葉はネットで検索しても出てこない。もしかすると、この言葉は注7の論考を読んで私が作り出した造語かもしれない。
(注6)このことについては、いつか「ある元裁判官の履歴書」において記すつもりである。
(注7)「有力な裁判官」の定義は難しいが、ここでは、司法行政ではなく、裁判実務上のリーダー的存在の意味で、刑事裁判、民事裁判それぞれの分野におり(家事事件や少年事件の分野ではあまり聞かない)、司法研修所の教官や最高裁調査官を務めた経歴を有する者で、いずれは(多くは)東京高裁の部総括(裁判長)を経て高裁長官にまで上り詰めそうで(最近,そのような裁判官が最高裁判事にまでなられる例は少なくなったように思う)、かつ、書籍や雑誌に多く論文を掲載しているような裁判官を意味する。そして、そのような「有力な裁判官」ではない一般の裁判官は、そのような「有力な裁判官」の意見は、なんの根拠もないものの、なんとなく、最高裁事務局のお墨付きを得ていると、漠然と思わされている(私見)。
(注8)判例タイムズNo588(1986.5.1)号8頁に、小林充・東京高裁判事(当時。同判事は仙台高裁長官になられた。以下「小林氏」という)が、「刑事事務と下級審判例」という表題で書かれた論文の中(12頁)に、「裁判官の判断は、個人としての判断ではなく、国家機関としての公の判断であるということを認識しなければならない。すなわち、裁判官は、個人としてはある法律解釈が正しいと思っても、それとは別に国の裁判所としてのあるべき法解釈が何かということを探求しなければならず、かつ、国家機関としての裁判は」、そ「の法解釈に従ってなされなければならない」、「国の裁判所としてのあるべき法解釈は、(中略)当該事件が将来最高裁に係属したならば最高裁が下すであろう法解釈ということにほかならず、下級審裁判官としてはそれを予測した上で当該事件について裁判をしなければならない」と記述されている。

(注8)もちろん、小林氏の上記論考中には、我が国においては判例の法源性が否定されているから、下級審裁判官が既存の最高裁判例に反する裁判をなす場面があり得ることを指摘してはいる。しかし、それも、あくまで「当該事件が最高裁に係属した場合に最高裁が従前の判例を変更して自己の採った法解釈を是認することが見込まれる場合」と述べているから、そのような「場合」であると予知するのは神様でもない限り不可能であろう。小林氏は、そのような「場合」として、自らも関与した偽造運転免許証を携帯して自動車を運転することが偽造公文書行使に当たるとしていた最高裁裁判例に反する判断をした例などを挙げ、逆に、最高裁判例に反する判断をしたいくつかの公職選挙法戸別訪問禁止規定違憲判決を相当でないと指摘しているが、学会では、戸別訪問禁止規定が憲法21条違反であるとする見解が有力で、最高裁がその見解を採らなかったのは単なる結果論のように思われる。なお、私は、これら戸別訪問禁止規定違憲判決をした幾人もの裁判官を全国裁判官懇話会等でお会いして直接存じ上げているが、それら裁判官は、その実力に見合った地位や任地を与えられていなかった(ひどい差別を受けていた)ことは、衆目の一致するところである。