広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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ある元裁判官の履歴書(7)[広島地裁2]

2020.02.01

 初めて実際に「裁判官」として働き始めたときの感想はもうほとんど覚えていないが、私が司法修習生のとき、その責任のない毎日に飽き飽きし、早く実務に就きたいと考えていたことははっきりと覚えているし、修習中親しくなった人のうちの何人かが裁判官になること(任官)を希望しながら採用されなかったから、その人達のことも思い、相当の覚悟をもって日々を過ごしていたように思う。
 ただ、当時、広島地裁の刑事合議事件の未済(注1)件数は少なく、合議事件(主に、法律で死刑、無期または短期1年以上の懲役または禁錮刑が定められた罪についての事件(裁判所法26条2項2号))となるような重大事件もたまにしか起こらないから(なお、裁定合議事件(同法26条2項1号)や合議体で審理される準抗告事件(刑訴法429条1項,3項)は、広島地裁ではさほど多くはなかった)、新受件数も少なく(注2)、合議事件の開廷日(注3)でも法廷ではなく裁判官室(以下、単に「部屋」という)にいることが多かった。もちろん、その日は裁判長と右陪席裁判官も部屋におられた筈だし(注4)、いつ何時裁判長から合議を持ちかけられたりするかもしれなかったから、気が抜けなかったとは思うが、裁判長も右陪席裁判官も単独事件の法廷でほぼ一日裁判官室にはいらっしゃらない日は、合議事件が終結(検察官の論告と弁護人の弁論が終わって判決しなければならなくなること)して、他の裁判官と「合議」するためのたたき台としての「合議メモ」を作る仕事や判決起案等の仕事がない限り、(数少ない合議事件が終結することはたまにしかないから)正直言ってやることもなく「暇」であった。
 そこで、私は、それらの時間はたいてい「資料室」に行って、本をあさって読むことが多かった。刑事事件の、特に自分ひとりで担当しなければならなかった勾留や保釈、逮捕状や捜索差押令状等について書かれた本や、将来法廷で自分が訴訟指揮をしなければならないときに必要な(しかし、刑事訴訟法ほどには勉強していなかった)刑事訴訟規則についての実務家向けの本を読んで勉強したことはもちろんだが、それ以外の本で特に記憶に残っているのは青木英五郎さんの「裁判官の戦争責任」、そして、浅野健一さんの「犯罪報道の犯罪」であった(それらについては、いつかまた、稿を改めて触れたい)。

 
 
(注1)文字の意味から多分理解していただけるとは思うが、「未済」(みさい)事件とは、当該裁判部※または裁判官の担当でありながら、未だ判決や決定に至らず、今後「処理」(嫌な言葉だが、そう言われていたので、そのまま使う)しなければならない事件であり、「既済」(きさい)事件とは「処理」してしまった事件である。前月末の「未済」事件数に当月の「新受」(しんじゅ。新たに担当することになった)事件数を加え、「既済」事件数を引いた件数が当月末の「未済」事件数となり、一審刑事事件の場合は、部に係属する合議事件と各部所属の各裁判官担当事件の、判決と(ほとんどなかったが)決定の新受・既済・未済数字が毎月分かるような統計表が、全国どの裁判所でも、同裁判所所属の全裁判官に(そして、多分最高裁の関係部局にも)回覧されている。この統計表は、刑事事件の場合、さほどの意味を持たなかったが(刑事事件の場合、未済が増えるのは、裁判官の能力というよりは、裁判官数の割に新受事件数の多いことや、否認事件の数などが、その理由の大半である)、民事事件を担当するようになると、(裁判官によっては、同じ数の新受事件がありながら人より多く事件を「処理」して未済件数が他の裁判官より少なくなるので、裁判官の能力の差だとみなされることが多いため)非常に気になるものとなった(私は、敢えて気にしないようにしていたが、「敢えて」その「ふり」をしていたことを告白しなければならない。なお、この問題については、後にまた触れることになろう)。

 ※「部」は、一審裁判所の場合、通常合議体が組める3人ないしそれ以上の裁判官で構成され、うち1人は、最高裁が指名する「部の事務を総括する裁判官」(下級裁判所事務処理規則4条)で、同裁判官が「裁判長」となる決まり✳︎✳︎である(同規則5条2項)。なお、同人は、「部長」と呼ばれることが多いが、これは、戦前の旧「裁判所構成法」(同法20条3項等)の用語で、現在は「部長」と呼ぶのは誤りである。そこで、私は、なるたけ「部長」とは言わず、合議等の際には「裁判長」、その他の場合は「総括」と呼ぶようにしていた。他に、通常、単独事件を担当できる裁判官等の経験が5年以上の判事補の中から最高裁が指名した特例判事補(判事補の職権の特例等に関する法律1条。まず例外なく指名されている)または判事と、未だ単独事件を担当できず、合議事件の主任裁判官(判決の原案となる原稿を起案することを主な役割とする裁判官)となる「未特例」判事補がいる。この3人で部を構成するのが基本形だが、判事補を大量に採用した時代には、1つの部に未特例判事補が2人以上いたり、「部」を作るには規則(下級裁判所の部の数を定める規程)改正や予算措置が必要なので(と聞いた。昔と異なり、最近は、部屋がないという問題は余り生じない)、一つの部に6人以上の裁判官を置いて、部総括ではない「裁判長」を置き、合議体を2つ持つ「部」もある。また、私は大抵そうであったが(いわゆる「合議不適」のレッテルが貼られていたのであろう)、合議体を構成する裁判官のほかに、合議体の裁判には関与しない(させない)単独事件のみを担当する特例判事補や判事が所属する「部」や「支部」も多くある。

※※ 私は、「部の事務」とは司法行政事務のことを指すのであるから、その事務の「総括」裁判官が、それとは無関係の「事件(裁判)」についての裁判長になることは、裁判官になった当初から違和感を感じていた(本来は、最高裁のように、主任裁判官が裁判長を務めるべきであろう。なお、一人で(通常の)裁判ができない判事補の問題は、また別に論じたい)。

(注2)実は、当時の私の「期日簿」が残っており、それには、律儀に当時の私の全担当事件をまとめた一覧表も付いている。それによると、私が広島地裁に着任した時点における私の担当事件数(すべて合議事件で、1週間に2日開廷)は、起訴状の数で33件、被告人の数は18人(1人の被告人が何件かの事件を起こしてそれらの事件がひとまとめとして裁判されている事件(客観的併合)が何件かあったし、2人の被告人を同時に裁判していた事件(主観的併合)も2件あったから、当時の私の感覚としては事件数は16件)であった(新受件数も、上記私の感覚の方法で数えると昭和58年を通じて1か月に2、3件で、最も多い月で5件)。そして、合議事件は何回か法廷(期日)を開く事件がほとんどで、その場合、期日調書(書記官や速記官が作る記録)の作成や、検察官(多くは追起訴準備)及び弁護人(裁判所の開廷日が限られているので、その日に別の予定が入っていることが多かった)の都合を考慮すると、大体、1か月半か、それ以上に1回くらいのペースで裁判(期日)が行われていた(今の裁判所は、そんな悠長なペースではない)。したがって、私が関与して1か月に開く法廷(期日)の総数は、通常10件に満たなかった。
 なお、別に述べるつもりだが、大体2週間に1回くらいの割合で勾留や保釈を担当する日があり、たまに夜間の逮捕状や捜索差押令状等を担当する令状当番が回ってきていたほか、刑事2部と、確か4か月交代だった記憶だが、私と右陪席裁判官が三次支部(常駐する地家裁裁判官は支部長1人しかいない)にたまに係属する刑事合議事件を担当するため出張する仕事のほか、呉支部で、地家裁裁判官(同支部には3人しかいない)が原審裁判官となった勾留等の事件について準抗告が申し立てられた場合、その準抗告事件(合議体で判断する)を処理するため同支部に出張してする仕事もあった。

(注3)法廷の数は限られているから、各部や各裁判官に「専用」の法廷はなく、通常は、1つの合議用の大きな法廷を2つの合議部が、1つの単独用の小さい法廷を2人の単独担当裁判官で使う。そして、例えば、1つの法廷を、月曜と水曜と金曜の午前中をAの合議部(単独裁判官)が、火曜と木曜と金曜の午後をBの合議部(単独裁判官)が使用し、年度が変わるごとにその曜日を交代する、というふうにされていた。なお、「ラウンド法廷」というものが導入された後は、2つの法廷(通常法廷とラウンド法廷)を3人の単独裁判官で使うこともなども生じてきて、その場合、曜日によって使う法廷が異なる場合が多く、ややこしい。
 アメリカでは、各裁判官専用の法廷があるのが通常だと聞いたことがあるから(確認したわけではないが、そうであれば、法廷に、審理中いつでも参照できる自分専用の書籍やパソコン等を置くことが可能だ)、羨ましい限りであるが、国土が狭くて効率重視の日本では仕方あるまい。

(注4)裁判長は、自分の判断で合議事件の期日を入れずに自分の単独事件の期日を入れることができるので、裁判長のみ(合議用に割り当てられた法廷を使って)単独事件を「処理」するため法廷に行っていて、右陪席と2人で部屋にいたこともあった記憶である。