広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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私と裁判(1)

2024.01.01

 2024年1月1日を迎えて、少しは仕事以外のこともしようと、ワードプレスを立ち上げてコラムを追加することにしました。
 というのも、昨年(2023年)は、12月5日からインフルエンザで約1週間仕事ができなかった(ずっと寝ていました)上、その後も1週間くらいは毎日眠くてまともに仕事ができなかったので、同月30日にも事務所に出て(もっとも同月25日~27日は旅行に出ました)溜まった仕事をし、昨日も今日も、そして明日からも自宅で同様の状態なのです。
 というわけで、新たな原稿ではなく、今回は、広島弁護士会福山地区会で発行されている「会報」に一昨年(本稿)と昨年に寄せた原稿を転載しようと思います。
 本稿は、私の刑事裁判(自白事件)の審理方法のもので、自分としては非常に合理的で、刑訴法の趣旨にも沿っていると思うのですが、多分、私以外誰もやっていない(やってる方がいたらごめんなさい)と思うので、是非とも「裁判官論」として公表したかったものです。
 以下、「会報」に載せたほぼそのままを転載します。したがって、これまで公表した「コラム」の内容と一部被っているかもしれませんが、ご容赦を。
 なお、文中に現れる「豊穣」とは、私が「会報」で連載している(無農薬はもちろんなので)無肥料、無起耕(これは実現できていない)で、いずれも種から育てる野菜作りの真似事についての原稿のことです。

【新連載】 私と裁判(1)
-刑事自白事件の審理方法について-
         森 脇 淳 一

 誠におこがましいのであるが、「会報」の原稿が不足気味と聞いて、「豊穣」に加え、今一つ私の35年半の裁判官生活を振り返る連載原稿を書かせて頂くことにした。
 昔、「年寄りは愚痴と自慢話しかしない」と言いながら、大いにそれを実践して周囲の顰蹙を買っていた老裁判長の下で働いたことがある。私も正にそうなって皆さんの顰蹙を買うことを怖れるが、ただ「弁護士会」報であるから、多少なりとも皆さんの興味を引くかもしれない法的エピソードを中心に記していきたいと思う。
 なお、この原稿は、将来、補正の上、私のホームページ(https://moriwaki.work/)のコラムに転載させていただくことをご了解願いたい。

1 起
 司法修習生として、初めて刑事裁判を傍聴した私は、その裁判に最も利害関係を有する筈の被告人の殆ど(注1)が、ただただ退屈な法廷でのやりとりを傍観させられている、そこで行われている事柄から最も遠い場所にいる者のように感じて違和感を持った。
 また、大学で、刑事裁判は被告人の人権を守るためにあると教えられそう確信していた私は、裁判所は検察官を教育し、治安を維持することに努めなければならないと公言する東京刑事裁判所の裁判長らに対しては、嫌悪しか感じなかった。
 そこで、私は「二度と東京の土は踏むまじ」と詠んで、人権派裁判官が生き残っていると噂に聞いた関西の裁判所では、東京とは違う刑事裁判が行われているのではないかと期待して、関西の裁判所で任官したいと考えた。しかしまた、大学時代、下宿で経験した京都人の「いけず」に二度と晒されたくないとも思っていた私は、希望赴任地として、大阪、神戸と書いた後(注2)、思いあぐねた末、私が最初に買ったLPレコードが吉田拓郎のものだった縁で、「広島」と書いた。後から聞いた話では同期裁判官で希望地に「広島」を書いたのは金村さんと私のみだったそうで、私は、関西での任官叶わず広島地裁刑事1部の左陪席裁判官として裁判官生活を開始した(今では「広島」との縁ができたことはよかったと思っている)。
 新任判事補としての生活は、今時の判事補と違って暇で、誤解を怖れずに言えば退屈であった。
 大型否認事件はあったが2年後の私の転勤までに終わらないことが確実で身が入らず、私が判決しなければならない唯一の否認事件は、どう考えても有罪の強制わいせつ事件で、前科持ちの組員の被告人が、刑が重くなるのを知りながら否認を続ける理由が皆目分からなかった(誰かが、わいせつ犯罪の受刑者は刑務所で最も馬鹿にされるから、あるいは、ヤクザとして恥ずかしい犯罪だから認めないのだろうと教えてくれた)。
 自白事件については、審理も、また、その判決書きにも刺激はなく、特に証拠の標目を書く理由が納得いかなかった。将来再審請求された際、有罪とした根拠を知るためと説明されたが、そんなことなどありそうにないと思ったし(注3)、戦前の判決には書かれていた有罪の理由も書かず(戦時特例法で不要とされたのが引き継がれたらしい)、標目の記載で証拠の内容や有罪の理由が分かる筈もあるまいと思った。判決原稿(注4)に標目をペンで書くことに苦痛を感じた私は、当時、ワープロがなかったので、約1万円を費やして「検察官」、「司法警察員」、「作成の」、「供述調書」、「実況見分調書」、「広島県警察本部刑事部科学捜査研究所長作成の」等の判子を作って、それを起案用紙にペタペタ押した(注5)。

2 承
 暇を持て余した私は裁判長や右陪席裁判官が単独裁判のため法廷に行っている間、資料室で本を読み漁った。印象に残っているのは青木英五郎著「裁判官の戦争責任」(後には青木英五郎さんの全集を買った)や浅野健一(後日、お会いする機会があってお話しした)著「犯罪報道の犯罪」などであった
 勿論、刑事裁判についての本も読んだ。
 当時、必読書といわれていたのが、岸盛一・横川敏雄著「事実審理」で、今となってはその読後感は定かでないが、只、私は、現に行われている刑事裁判の実際と、同書の標榜する「法廷で心証を取る」審理方法(以下、本稿ではこのような審理方法を是と主張する裁判官を「新刑訴派」と呼ぶ)が余りに違うこと、検察官が早口で表題を読む程度で済ます「要旨の告知」で裁判官が「心証」を得られる筈がないことなどから、相当の違和感を持ったことは間違いない。
 そして、私なりの刑事裁判の審理のあり方(注6)に決定的な影響を与えたのが、当時広島地裁刑事2部の裁判長をされていた谷口貞裁判官であった。谷口さんは判例タイムズ435号30ページ(1982年1月1日号)に、「無罪判決について」という講演記録を載せられているように、いわゆる 「人権派」の裁判官と思われていたし、当時同部左陪席であった〇〇〇裁判官が出張の間、私が同部の左陪席として填補した際、谷口さんが私に「私の部に来て頂きたかった」と言われたのを聞いて非常に感激した。そのとき、私は、谷口さんが、認定落ち(注7)の起案をするなどした私の司法研修所での言動や、青法協所属修習生ら主催の集まりに積極的に参加していたことから出た言葉と考えたが、後に、私は刑事2部に着任予定であったが谷口さんのご病気の関係で、(任官当初から「問題児」扱いされていたらしい)私の指導は荷が重いということで、〇〇裁判官が1部から2部に異動し、その後の1部に私が着任したという経緯からの発言だったと知った。
 本題に戻そう。
 谷口さんの事件の審理方法は、東京地裁や広島地裁刑事1部で見たそれとは全く異なる新鮮で、驚き以外の何物でもなかった。
 まず、谷口さんは、「要旨の告知」を自らなさった(刑事訴訟法305条1項ただし書、刑事訴訟規則203条の2第1項はこれを許容している)。また、谷口さんは、法服の袖が捲れ、ご病気のためと思われる細く白い上腕を露わにされながら厚い記録をぐっと目の前に持ち上げて、法壇の上から正面に座る被告人に向けて「んっ」と言われながら実況見分調書添付の写真や図面を被告人に見えるよう1枚1枚示した。
 右陪席裁判官も書記官も検察官すらも谷口さんのなさることを当然のことのように見ていたため、どうしても谷口さんにこのような審理方法をなさる理由について質問することが出来なかった私は、その理由を自分で考えようと決めた。

3 転
 ところで、刑事訴訟法には不思議な規定がいくつかある。例えば同法49条は「被告人に弁護人がないときは、公判調書は、裁判所の規則の定めるところにより、被告人もこれを閲覧することができる」とある。最高裁の判例は、この規定の反対解釈により、被告人に弁護人があるときは、被告人は公判調書の閲覧はできないとしている。必要的弁護事件の範囲は広いから、ほとんどの事件で被告人は自らが裁かれている事件記録の閲覧ができない。このような規定が置かれた理由については、被告人が自らの罪を免れるため、記録を破棄したり、改ざんしたりすることを防止するためだと読んだ記憶がある(注8)。
 つまり、被告人は、弁護人が記録を謄写し、(勾留されている場合は)差し入れてくれない限り、自らが、どのような証拠に基づいて裁判されようとしているのか知り得ない。
 そして、自白事件については、特段の事由がない限り、国選弁護費用として記録の謄写費用が認められないことからすると、日本の刑事裁判において、被告人は、自らの裁判で証拠とされる書類を閲覧する機会すら実質的には保障されていないというほかない。
 しかし、これでは増々被告人は裁判の主体ではなく、単なる傍観者としか言えないし、そもそも日本の刑事裁判は、被告人が自らを有罪であると決する証拠にすら接することのできないもので、近代裁判の名に値しないというほかない。
 そこまで考えて私は、谷口さんのなさったことは、被告人に対し、自らの裁判に用いる証拠を知らしめるためになさったことだったのだろうと思い当たった。
 すなわち、証拠の朗読又は要旨の告知及び展示(刑事訴訟法305条~307条、刑事訴訟規則203条の2)は、決して新刑訴派のいうような裁判官が心証を得るための手続ではなく、被告人に証拠を知らしめるための手続であると確信したのである。
 そもそも、有罪の裁判書の「証拠の標目」には「供述調書」と書き、「供述調書の朗読」とか「供述調書の要旨告知」とは書かない。また、我々裁判官は、法廷で提出された証拠書類の証拠能力をそこに記された署名押印により確認するのであって、裁判官室でそれらを読まずして判決を書くことなどできない。つまり、証拠書類は、それそのものが「証拠」であり、場合によってはその筆跡、紙質等も心証に影響するのであって、法廷で検察官が朗読又は要旨告知したその音声で心証を取るものではないのである(注9)。

4 結
 その後、私は、裁判官任官18年目に津地方家庭裁判所上野支部兼上野簡易裁判所(現伊賀支部・伊賀簡裁)に着任するまで、刑事合議事件の陪席を務めることはあっても単独事件は担当せず、従って刑事裁判を主宰することもなかった。
 津地裁上野(伊賀)支部及び上野(伊賀)簡裁並びにその後転勤した広島高裁1部で刑事控訴審を担当した後に赴任した広島地裁福山支部で私が採用した刑事事件の審理方法は、以下のとおりであった。
 すなわち、自白事件については、実質的に私の理想とする有罪答弁制度を簡易公判手続(刑事訴訟法291条の2、307条の2、320条2項、刑事訴訟規則197条の2、203条の3)を活用して実現するとともに、谷口さんから学んだことも実践しようとするものであった。
 その詳細は、当時、弁護人として私の刑事裁判手続(注10)に接した方にとっては自明のことと思われるが、要するに、簡易公判に付した後、被告人の供述調書(正確には戸籍及び前科関係証拠を含む乙号証)は全て即座に検察官から私に手渡してもらい(注11)、私がそれらに目を通す間、それ以外の甲号証については、検察官から、私の正面に座った被告人に対して、1枚1枚捲りながら示してもらうもので(被告人調書を読んだだけでは被害状況が分からない場合などは、検察官に被害者の検察官調書を読み上げてもらうこともあった)、その間、弁護人は暇かなと案じたが、検察官の中には被告人に証拠を示すだけでなく色々と説明を加えてくれる方もおり、弁護人の中にも被告人席に近づき、被告人と一緒に検察官の示す証拠書類を見る方もおられた。
 上記審理方式は、被告人調書は被告人自身が見ているであろうから、それ以外の証拠を被告人に示すために編み出したものである。
 なお、私は、検察官から被告人に甲号証を示してもらった後、(その認識はなかったと仰る方もおられるかもしれないが)被告人に対し、証拠についての意見や被告人供述調書の任意性に関する質問をして、実質的に刑事訴訟法325条、326条1項に定める任意性、相当性調査をし、かつ、同法308条の証拠の証明力を争う機会を与えたつもりであった。
 同方式のメリットとしては、その後行われる情状証人や被告人質問の際、被告人調書が私の頭に入っているので、疑問点の指摘や補充尋問がし易いことであって、一回結審のデメリット(裁判官が証拠書類を十分に読んで吟味する機会のないまま弁論を終結(結審)してしまうこと)を多少なりとも減ずることができたのではないかと考えている。
                 (以上)

(注1)修習中傍聴した中で、唯一、弁護人席の前で、延々と続く証言を聞きながら必死の形相でノートをとり続けていた新宿クリスマスツリー爆弾事件(ご存じない方は、ウィキペディア等参照)の被告人の姿は、昨日のことのように覚えている。
(注2)当時、新任判事補は、全国12大庁(東京、横浜、千葉、浦和、大阪、京都、神戸、名古屋、福岡、仙台、札幌、広島)のみに配属され、関西は残り京都のみだった。
(注3)後に、私が判決に関与した自白事件が再審無罪となったが、その話は次回以降に。
(注4)裁判官にワープロが配布され、裁判書原本を裁判官が自ら作成するようになった平成の初め頃まで、裁判書原本はその殆ど(※)が和文タイプで作成されていた。広島地裁のタイプ室には十名以上女性タイピストがいて、複数の薄紙の間にカーボン紙を挟み、物凄い音を立てながら裁判書原本を作成していた。タイピストの女性達は皆高卒であったが非常に優秀で(後に、その殆どが書記官に転官した)、私の起案原稿について、「こうした方が良くないですか?」と指摘してくれたりした。私は、彼女たちと話すと楽しいし、他の原稿より先に原本を作ってくれるのではないかという期待もあって、タイプ室によく顔を出していた。
(※)私は、昭和60年10月に名古屋地裁の執行保全破産部(民事2部)に異動したが、執行書記官室にはパソコンが導入されており、私は初期の「一太郎」(ワープロソフト)で、書記官に教わりながら大変な思いをして執行関係の決定書を打ったことがある。
(注5)私は、日本で無罪判決が少ない理由の一つが、自白事件と否認事件を同じ手続で審理することだと考えており(詳しくは別稿に記したい)、自白事件は、原則有罪答弁制度(アレインメント)で審理されるべきであると考えている。私は、何かの研修で司法研修所に行ったとき、当時刑事局1課長だった中山隆夫(彼は、刑事裁判修習を担当する裁判長の右陪席をしており、顔見知りになっていた)に私の意見を述べたところ、中山さんも私と同意見だと述べた上、「しかし上の方がウンと言わない」と言った。それを聞いた私は、憲法38条3項の問題は、法律の工夫で何とでもなろうが、有罪答弁制度を導入すると、刑事裁判官の数がますます減って、当時民事裁判官閥に押されていた刑事裁判官閥の力がますます小さくなるからではないかと考えたが、本当はどうなのであろうか?(その後、裁判員裁判導入により、刑事裁判官閥の復権は著しい)
(注6)刑事裁判の「審理のあり方」でなく、特に、その「事実認定の方法」について決定的影響を受けたのは、念願叶って関西の裁判所である大阪地裁堺支部に配属され、小河巌裁判長の左陪席として刑事裁判に当たったときのことであったが、それについては別稿で詳しく述べたい。
(注7)「認定落ち」も、もしかしたら裁判所のジャーゴン(業界専門用語)かもしれないので若干説明する。前期修習の多分最初の自宅白表紙起案で、私は、いわゆる近接所持事案(※)について、クラスで只一人(本当は無罪だと思ったが、日和って)贓物収受の起案をしたところ、〇〇〇〇教官から集中砲火を浴びた。そこで私は、「この程度の証拠で有罪にされたら被告人もたまったものではない」と独りごちた。そのため、私は、周囲から、裁判官への任官は無理だと思われていた。
(※)近接所持事案の白表紙起案とは、司法修習生が、窃盗事件が起きた時点の直後に盗品を所持していた人が被告人となっている事案についての刑事記録(の一部)を印刷したもの(表紙が白いので「白表紙」という)を手渡されて、判決などを起案することである。
(注8)他にも、刑事訴訟法には、被告人を「犯人」扱いする規定が多くあり、結局、「被告人の無罪推定」というのは、特に起訴便宜主義が取られている日本の法制下においては所謂「建前」であって、日本の刑事裁判官は、この「建前」に忠実であろうとするか(私はそうだったと自惚れている)、それとも「本音」に従わざるをを得ないと考えるのか(普通の刑事裁判官)によって色分けされるように思う。
(注9)このように思い当たった私は、後に、大阪地裁堺支部で、小河さんが、「要旨の告知など時間の無駄だ」として証拠書類の要旨の告知すらされなかったことについては、そのほとんどが無罪主張事件であったことから、(弁護人から、被告人にその内容が示されていると考え)特に違和感を持たなかった。
(注10)通常の刑事裁判官と異なることとして、人定質問(勾留質問を含む)の際、必ず「私は裁判官の森脇と申しますが、貴方のお名前は何ですか?」と言うことも挙げられようが、これは単に、若い頃、岡本おさみ作詞、泉谷しげる作曲の「黒いかばん」を聞き、「人は会ったなら、まして初対面なら、お互いに名乗るのが最低の礼儀でしょう」という見解に対し、反論の余地はないと思ったからに過ぎない。
(注11)説明の要はないと思うが、簡易公判手続は余り使われていないので、一応の説明をしておくと、同手続の決定があると、刑事訴訟法307条の2及び同法320条2項により、検察官の冒頭陳述(同法296条)、証拠決定(同法297条)、証拠調べの方法等(同法300~302条、304~307条)及び伝聞法則(同法320条1項)の適用がなくなって、証拠調べは「適当と認める方法でこれを行うことができる」(同法307条の2末文)。