広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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私と裁判(3)

2025.06.22

 以下は、「私と裁判」の(1)、(2)と同様、広島弁護士会福山地区会発行の「会報」(2025年)に投稿した原稿です。裁判官時代、法律論より事実認定論に関心が強かった(弁護士になってからは、この国の法律やその適用の問題に関心が遷っています)私の現時点における最終到達点といえると思います。
   私と裁判(3)
-事実認定の手法について-
        森 脇 淳 一

1 今回は、前稿(私と裁判(2))の冒頭で、「私の命永らえたなら」と書いた「別稿」の一つである私と裁判(1)の注6で指摘した「事実認定の方法」について記したい。
 ところで、もし私のココロが分かった人がいたら嬉しいのであるが、私がこの連載を始めた動機は、私が弁護士になって以降に接した「最近の若い者(=裁判官)」に一言物言いたいと思うようになったからである(差障りがあるので詳論は避ける)。
 刑事裁判と民事裁判について言いたい「物」については既に書いてしまったし、家庭裁判所管轄の事件に言いたいことは、成年後見制度及びその運用についての問題が大きすぎてそのことしか頭に浮かばず、その改革が私のライフワークにならざるを得ない状況に追い込まれ、日夜裁判所及び成年後見人弁護士らを相手に奮闘中であるからそれについて書くのは時期尚早である(というかその問題を弁護士会内でアジってみても仕方が無く、その改革は、裁判所の弱点(世論、国会、マスコミ、国際機関)を突くしかないと考えている)。
 民事のいわゆる新様式判決批判、過払金バブルを作出した最高裁の貸金業法43条についての裁判及びその結果弁護士の横領を導くことになった最高裁の洞察力のなさ等の最高裁批判、旧刑訴法賛美論(併せて司法修習生当時から裁判官になって以降、ずっと私のことを心にかけて下さった元最高裁調査官・東京高裁裁判長・三井明さんについても是非触れたい)、そして、死刑と憲法についての最高裁判決の変遷等、私独自(ではないかもしれない)の書きたいことは山程あるが、それらはいずれも相当の準備が必要で、それこそ私が命永らえ、弁護士を辞めてなお認知症にならず(最近犇犇(ひしひし)と、自分にもそれが訪れる(ている)不安に駆られている)に物が書けたときまで延期したい。

2 さて、私は、任官当初から関西特に大阪での勤務を希望していたが(私と裁判(1)の1参照)願い叶わず広島→名古屋と転勤し、任官6年目にようやく大阪地裁堺支部勤務となった。本庁でないのは高裁所在地の地裁勤務を2つ経ているので仕方がないと思ったが、しかし、同支部での勤務は、特に書記官や事務官(裁判官の世界では、どういうわけか纏めて「職員」という)との距離が近く(親しく交際した方も多い)、かつ、いわば裁判官の「監督」機関である所長配下の総務課や人事課の目が届かないことからお気楽で、私の「支部」好きは、ここでの経験に基づくものである。

3 本来、私は、堺支部では、私と入れ違いに転出した民事合議体左陪席裁判官の後任になる筈(もしそれが実現されていれば、全国裁判官懇話会(注1)参加裁判官のみによる合議体ができた筈)だったがどうしても刑事合議体から抜け出したかった私の2期先輩裁判官の「画策」により、同裁判官は刑事部経験1年で民事部に移動し、私はA裁判長(堺支部支部長。注2)、B右陪席裁判官(東京地裁刑事部の修習生担当裁判官だったのでよく存じ上げていた)と私で構成される当時同支部唯一の刑事合議体の左陪席になった。
 後々知ることになるが、A裁判長は、陪席裁判官に対し厳しく指導というか当たられ、既に幾人かの陪席裁判官を「退職」や「(精神的な)病気」に追いやっている方だと聞き知った。
 確かに、Aさんの「指導」(注3)は厳しいものであったが、そのお陰で、私は、大学でも司法研修所でも特に教えも訓練もされず、私自身自信の持てなかった「事実認定」について私なりの方法論を確立することができ、それは法曹として働くその後の私の大きな財産となったことは感謝しきれない思いがある。
 なお、A裁判官は、私が堺支部在職中に「無罪常習裁判官」として、また堺支部に6年以上「塩漬け」にされている裁判官として、「週刊新潮」の記事として2回も取りあげられた裁判官であった。
 事実、当時、東の木谷(明)、西のAと言われたように無罪判決を沢山言い渡されたが、木谷さんと異なるのは、木谷さんのそれに対してはほとんどが控訴されなかった(1件のみで、それも高裁で維持されたと聞いている)のに対し、Aさんのそれは、その多くが検察官控訴され、そのほとんど(私の知る限り、控訴審で無罪が維持されたのは1件のみ)が控訴審で破棄され、有罪となった(そのことについてAさん本人からも含め聞き及んでいることがあるが本稿では控えておく)。また、堺支部の支部長は2~3年で地家裁所長になるポストであったが、6年以上も据え置かれることは確かに前例がなかったと思う。なお、Aさんは週刊新潮が騒いでくれたおかげか、私が奈良地家裁に転出後(実は、私も同裁判所の視察に来た最高裁裁判官にAさんの塩漬けを何とかするよう「直訴」した)、長崎家裁所長に就任できた。

(注1)全国裁判官懇話会については、ご存じない方はネット等でお調べ願いたいが、簡単に説明すると昭和46年に青法協所属の宮本康昭判事補が判事に任命されなかったことをきっかけに開催され、その後ほぼ2年に1度、最高裁当局から陰に陽に妨害されながらも平成18年まで開催された、私曰く「反体制裁判官の集会」であったが、最後はロートル裁判官の同窓会と化したものである(私はその終焉に手を貸した)。
(注2)司法研修所9期。大阪市の中心地ご出身で、その大阪弁はきついものの、どことなく品もあって、私は大阪弁についても大いに学ばされた。
(注3)私は本来、それぞれが独立して職務を行う裁判官が別の裁判官から「指導」されるべきではない(自省はすべき)と考えているが、本稿では敢えてその語を使わせて頂く。

4 さて、そろそろ本題に入ろう。
 最初に結論めいたことを述べておくが、民事・刑事を問わず「訴訟」において証明責任を負う者がなすべきことは、立証命題(民事訴訟では要証事実、刑事訴訟では公訴事実)が現実に存在したことについて、事件を担当する個々の裁判官に「確信」を抱かせることであるということは、揺るぎない「前提」としてよいと考える(注4)。
 もっとも、最近の裁判では、到底上記の「確信」に至らないと思われる、つまり、立証命題が認められない可能性が十分ある場合であっても簡単に事実を認定することがあるように感じる。心証の程度(証明度)が8割とか7割、論者によっては6割で、「証明」があるといえるなどと論じられるが、そもそも「心証の程度が〇割」といえるということ自体、私には理解不能で、「確信」である以上100%以外あり得ないと考える(注5)。

(注4)もちろん、保全事件や、刑事の命令手続等では担当裁判官に「確からしい」と思わせることである(それでも「何割」とはいえない)。
(注5)心証が確信(100%)でないと証明があったといえないと言うと、もしかしたら「証明」できなかったことにより真実が見誤られるのはおかしいという反論があるかもしれないが、その論理がおかしいことは理解していただけると思う。そもそも「証明」すべき者(立証責任を負う者)が「証明」できねば敗訴は仕方ないが、その逆に「2~4割」立証命題がなかったと「認められる」のに立証責任を負う者が勝つこと、つまり、「2~4割」証明責任を負わない者が勝つべきなのに、その勝つべき者が負けてしまうことこそ不正義だということに賛同していただけないであろうか?

5 ここで本題とは少し離れるが、私の立証責任についての見解を披瀝しておく。
 私は、司法修習生当時、ローゼンベルク流の見解に基づく司法研修所の要件事実論に違和感を感じ、資料室にあった石田穣・東大元助教授「証拠法の再構成」に書かれた(と私なりに理解している)立証責任は先験的に定まっているものではなく、個々の事案毎に証拠との近さ等に応じて裁判官が定めるべきものだとの考えに接して「これだ、これだ」と何度も言いながら興奮してそれを読んだことを記憶している(実は、このことは私の新様式判決違法論-いつか本誌で論じたい-に結びつく)。
 そして、刑事事件については、証明責任は名誉棄損罪の真実性など一部の例外を除き全て検察官側にあるから、事実のほとんどの立証責任は検察官側にある。

6 Aさんは私に2つのことを教えてくれた(「教える」と「指導」は違う)。
 一つ目は、裁判官が事実を認定するために「読む」記録、特に、刑事でいえば供述調書や報告書等、民事でいえば契約書等の「読み方」である。
 Aさんは、支部長室から合議等のため刑事裁判官室に来られる度に、私に、「これこれ(概ね新件)の記録は読んだか?」と問われた(実はAさんが記録を支部長室に運ばせるので、その合間を縫って読むのも大変だった)。私が読んだと答えると、次にAさんは「紙の裏まで読んだか」というような言葉(正確に記憶している訳ではない)と言われた後、「表面的な字面を読んだだけでは読んだことにならない」というようなことを言われた。
 当然のことながら、その当時の私はいくら考えてもその言葉の意味が分からなかったので、どんな場面だったか忘れたが、直接その意味をAさんに尋ねた。すると、Aさんは、大凡以下のようなことを言われた。すなわち、例えば警察官が報告書を書いたその時点において、その警察官がどんな状況下で、どんな知識に基づいて、何のためにそれを書いたかが分かって初めて「読んだ」ことになると。
 それを聞いた私は、突然目が開かれた思いがした。
 刑事事件の場合、裁判所提出の全ての記録から、各報告書や供述調書(以下「報告書等」という)が作成された時点において、供述者(報告書の作成者等を含む)が知っていた事実を特定(もちろん限界はある)し、それを前提にその報告書等を「読む」と、冤罪の場合、その「矛盾」を発見できる(注6)。
 私は、Aさんが無罪を主張する一部の事件については有罪説を唱えて刑事裁判官室の真ん中でAさんと正に取っ組み合いになるような合議をしたこともあったが、その余の殆どは納得して無罪とした(注7)。ちょっとスピリチュアル的になるが、私は、無罪になる事件は必ずどこかに「神様が残してくれた無罪証拠の片鱗」があり、それを捜し出すのが裁判官の役割だと感じたこともあった。
 民事事件でも、契約書等の記載又は本人らが法廷で述べる「事実」について、他の証拠から判明する客観的事実と対比しつつ、その記載あるいは事実があったとされる時点におけるその周囲の状況や契約書等の作成者及び事実関係者の認識を想像することにより、それらが信用できるかどうかが判明するのである。
 二つ目は、これは当たり前のことだと思うが、いかに検察官の主張する事実が常識的あるいは雰囲気的にあったように見えても、その事実が認められない、あるいはその事実と矛盾する事実が認められる僅かでも良いのでその可能性(Aさんは「無罪となる一本の細い糸」と表現されたと記憶する)があれば、それは無罪だということである(注8)。
 民事事件でいえば、主張・立証責任を負う当事者の主張する事実が認められないわずかでもよいので可能性が残れば、その当事者の請求は認容してはいけないということである(注9)。

(注6)このように、報告書等が作成された当時の事情を知るため、証拠はできる限り多い方が有利である。そこで、Aさんは、弁護人が不同意と述べた証拠についても、弁護人に「『物』として」、つまり、その記載内容が真実であると「認定」するためではなく単にある記載のある報告書等が「存在」することを立証するための証拠として「同意」しないかと問い、弁護人も、Aさんがそのように言うときは無罪になることを知っていたため、喜んでそのような「非供述証拠」として採用することに同意した。
(注7)Aさんと組んだ裁判体では1年間に15件の無罪判決をしたこともあり、私は有罪判決の書き方を忘れたと思ったこともあった。なお、余談だが、A裁判長は、罪状認否で被告人が「認める」ことを中々許さず、この事実はどうか、あの事実はどうかと根掘り葉掘り追求され、ほとんどの事件を「否認事件」にされた。
(注8)私はAさんがある著名事件で無罪を言い渡した後、Aさんと一緒に支部長室(ちなみに、裁判官室にテレビはない)でそのことを報道するテレビを見ていた際、Aさんから「誰が犯人だと思う」と問われて、今さっき無罪判決を言い渡した被告人だと思う旨答えたところ、Aさんも「そやな」と私の答えに頷かれたことがあった。そんな場合、屁理屈を使ってでも有罪にしてしまう裁判官もいるやもしれぬ。しかし、Aさんは、検察官の立証によっても上記「無罪となる一本の細い糸」が見つかれば、それは、いかに一見有罪のように見えたとしても「無罪」なのだという原則を貫かれた。Aさんは無罪推定という言葉を使わなかったし、そのような言葉とは無縁であったように思う。Aさんは、あくまで立証責任を、もっというと「事実」を厳格に探究した結果、無罪判決に至ったということだったと思う。
(注9)最近、この原則に反する民事判決を立て続けに受け、1件は高裁で一部の請求について逆転したが(残余部分につき上告中)、1件は高裁でも維持されて(訴額が大きく手数料のこと考慮して上告断念)、非常に辛い思いをした。

7 最後に、事実認定について触れるべきである重要な論点がある。
 実は、私がAさんと有罪無罪の判断で対立した主な理由は、いわゆる「経験則」が異なることであった。もちろん、私の「経験」がAさんに太刀打ちできないことはいうまでもなかったが、よく対立したのは強姦の成否であり、例えば、「若い女性の貞操観」についての認識はAさんと私とでは全く異なり、そのことでの対立はいくら議論を交わしても解消することができなかった(注10)。
 これまで述べてきた私の事実認定に関する見解は、古参の裁判官の間でよくいわれる「スジ」や「スワリ」を重んじる伝統的な事実認定論とは一見違うようにも感じるかもしれないが、私はそうとは思えない。
 つまり、「スジ」や「スワリ」はあくまで事実を認定する際に用いる「経験則」に関係するもののように思うのである。
 そして、「経験則」だけはどうにもならない、というのが私とAさんとの議論で痛感したところであり、「経験則」の証明こそが事実認定に当たり最後の難関のように思うのである(注11)。

(注10)私は、強姦しようとする男に暴行されて怪我を負うよりは、相手の男をなだめて避妊してもらって姦淫されることの方を選ぶという書籍を示すなどしてそのような場合も「抗拒不能」と認めるべきと説得したが、Aさんは「書いてあるだけだ」と言って取り合わなかった。なお、その後、Aさんと私の対立は、「抗拒不能」を要件としている以上、抗拒できるのにしなかったのであれば強姦は成立しないという「抗拒不能」についての解釈論の違いであったことが判明したので、もしかしたら、上記事例は「経験則」の問題ではなかったのかもしれないと今では思う。
(注11)Aさんは、「経験則」を立証するため、よく「実験」をされた(私も注9の事件で実験を行った)。例えば、裁判所の中庭で、裁判所職員に自白調書のとおり灯油(墨汁を混ぜ黒くしたもの)を何度も撒かせ、何度やってもその衣服に黒い灯油が付着するのに、犯行直後の被告人の衣服からは灯油が顕出されなかったことを理由に無罪としたことがあった。もっとも、そのような「実験」は、被告人がそれを考慮して自白調書のようにではなく、静かに灯油を流したのかもしれないなどという反論がされるなど、「経験則」は中々一義的に決まるものではないという困難さから逃れることができない。
(以上)