2024.01.01
以下は、私が、単独(高等裁判所に行く前は、未特例時代を除き、合議に入れて貰ったことはほとんどなかった)での私の民事通常事件のやり方を書いたものです。
「私と裁判(1)」と同様、広島弁護士会福山地区会発行の「会報」(2023年)に載せた原稿です(一部個人名を伏せさせて貰った)。
私と裁判(2)
-民事通常事件の審理方法について-
森 脇 淳 一
前稿(私と裁判(1))の注5や注6で予告した刑事裁判についての「別稿」は、いつか私の命永らえたなら本会報を穢させていただくことにして、今回は私の35年半の裁判官生活の半分以上の間関わってきた民事裁判(注1)、特に私の民事通常事件の審理方法について記したい。なお、民事判決については述べたいことが多いので、別に記したい。
(注1)私の福山支部在任中は、刑事・少年事件と家事事件が主な担当事務であったが(他に非訟事件、執行・保全事件等も担当した)、新任明け任地である名古屋地裁では、合計2年半、執行・保全事件集中部と、行政・無体財産事件集中部に、次は堺支部で3年間主に刑事事件を担当したものの、その次の奈良地裁(本庁と葛城支部)と、そのまた次の津地裁伊賀支部では都合14年間、主として民事事件を担当したし、福山支部勤務の後は、いずれ弁護士をしたいので、民事事件の感覚を取り戻すために高裁で民事事件を担当したいと希望して、名古屋高裁と大阪高裁で計4年半、民事事件を担当した(民事事件の担当は、計21年間)。
1 序
新任裁判官の多くは刑事より民事事件の担当を希望する。私も、司法修習生当時、民事は多忙であるものの仕事にバラエティがあり、弁護士との距離も近くて面白そうだと感じたのに対して、刑事はその真逆で、大学では民訴法の授業はすぐ寝てしまい(眠素)単位も取らなかったくせに(注2)、民事事件の担当を希望し続けた。
もちろん、死刑事件を担当したくないとの思いもあった。
私は、初任広島地裁で刑事部に配属され、初任明けも名古屋地裁で当初半年間、月~金は1人で勾留と1回前の保釈を担当する係になったが(注3)、その後、内部異動により民事第2部(保全・執行等の集中部)で約1年2か月過ごし(注4)、再び内部異動(注5)で、民事第9部(行政事件と無体財産事件の集中部。「完全合議制」といわれる両陪席が主任事件(判決起案(原案作成)を担当する)を半分ずつ受け持つシステム)で初めて裁判官として民事通常事件を「実験」した。
広島で殺人事件の刑の軽さに驚いた私は、ここでは、提訴後5年超は当たり前、10年を経た事件すら何件もあり、1人の証人尋問に下手をすると1年以上費やす(その間の証人尋問期日の回数は5~6回)、その「悠長さ」に驚いた。判決は、そのほとんどが書記官の書いた(当事者本人や証人尋問(併せて「人証」という)を記録した)「要領調書」(もっとも、特許事件については、特許庁を意識してか、裁判所速記官による速記録が優先的に使用できた)を読んで書く、つまり、人証は、いずれ誰か別の裁判官が書くための「調書作り」の作業に過ぎなかった(東京地裁での実務修習では、民事単独事件しか見なかったが、事件類型が限られているためか(注6)、そんな印象はなかった)。
私は、同部で約1年4か月間、左陪席をしたが、その間、判決を書いたのは、ほぼ無体財産事件のみで、行政事件は、どれも原告を勝たす「合議メモ」を書いていたら(換地事件が多かったが、どれも被告側が酷かった)、裁判長(有名人だが誰とは言わない)は、弁論を終結せず釈明事項を考えるよう私に命じ、私の書いたペーパーを、法廷でそのまま読んだ。したがって、私は一般民事事件をほとんど経験しないまま、特例が付き、次の堺支部で3年間刑事合議(私が刑事裁判の実務修習のとき修習担当裁判官だった〇〇〇〇さんが右陪席。裁判官の世間は非常に狭いのだ)事件を担当し(小河巌さんが支部長でかつ裁判長)、任官9年目に奈良地裁に赴任して初めて民事単独事件(法廷を使えるのは週2日)と、週1開廷の刑事合議の起案しない陪席と、週1日の保全執行事件と、初めて破産事件を担当することになった。
時は平成4年4月。当時、既に〇〇〇〇裁判官(神戸家裁で少年A(酒鬼薔薇聖斗)事件を担当した〇〇〇〇元裁判官の弟さんで、両名とも全国裁判官懇話会に参加していたから、私もよく知っていた)が大阪地裁で集中証拠調べを実施したことを判例タイムズに載せており、私も争点整理案の作成など新民事訴訟法(平成8年法109号)のコンセプトを先取りした審理を「試行」する係に指名された。
そして、初めて同地裁民事(確か)1係裁判官として法廷に向かう前、私は緊張が高まってトイレに寄った後、傍聴席の隅々まで人が埋まる法廷に入り、「私は、大阪地裁堺支部から赴任した森脇淳一です。民事単独事件は初めて担当するので、ご迷惑をおかけするかも知れませんがどうぞよろしくお願いします」と挨拶した(注7)。
傍聴席に座る多くの「人」が、全てその日午前10時~10時30分に入れられていた口頭弁論期日の事件の代理人弁護士らであると気付くのに時間は要しなかった。
その日、傍聴席一杯に弁護士がいた様子は、今でもまざまざと記憶している(その後親しくなった弁護士のそのときの顔まで覚えている)が、一体どのようにしてそれら事件の期日を終えたのかについての記憶は全くない。
(注2)刑訴法理論(恩師は鈴木茂嗣先生)には非常に興味を持った。なお、私が司法試験を受験した昭和55年当時、司法試験の訴訟法科目は、民訴法か刑訴法のどちらか一つを選択すればよかった。
(注3)このとき、勾留請求を却下し続けて名古屋地検の小林刑事部長や準抗告裁判所としたバトル(当局からは、私の「ひとりよがり」と見られたであろうことは、後に知る)については既にどこかで書いた記憶があるが、今一度この欄で書けたらと思う。
(注4)この際、大竹たかし(元東京高裁部総括)及び西野喜一(元新潟大学教授)という、当時、既に著名であった若手裁判官から薫陶を受けたこともいずれ記したいが、一つのエピソードだけは紹介しておく。
保全事件の債権者面接で、比較的大きな建設会社の当座預金の仮差押をするように強いる保全申立代理人弁護士に私が疑問を呈したところ、その弁護士から忌避の申立(これが私の裁判官生活の中で弁護士からされた唯一のものである)をされた際に、西野さんから言われた「森脇さんのような未特例判事補でも弁護士にとっては権力者なのだから、気をつけた方がよい」という趣旨の言葉は、忘れてはならないと思ってきた(時々忘れたけど)。
(注5)このとき、当時審尋中で、債務者の反論を得た上で、認容するつもりであった日照権に基づく建物建築禁止仮処分事件を「持って」(同事件のみは引き続いて担当することにして)民事第9部に異動したいと主張する私に対し、可知鴻平所長(私が敬愛する数少ない裁判官の1人。ずっと、賀状のやり取りをしていた)にたしなめられた言葉も懐かしい。
(注6)東京地裁は特別部が多い上、目星い事件は合議となるため、通常部の単独事件は建物明渡請求事件や貸金関係が殆どで、つまらないと思った記憶がある。
(注7)この日、私がこう挨拶したことは、非常に珍しがられ、奈良弁護士会員の間で相当の話題になったと、その後、10年間奈良地裁本庁及び同地裁支部にいて、私が「奈良弁護士会準会員」と言われるほど同会員と交流するようになった後に聞かされた。なお、それら奈良弁護士会の会員弁護士ら(主に同弁護士会の「大御所」又はその周辺にいる方々であった)との交流(大御所の自宅で行われる恒例の新年会などにも参加した)により、私は多くを学ばされた。
弁護士の一番の「敵」は依頼者だという言葉は、驚きとともに記憶に残っているし、「判決」を得ても保険会社が支払ってくれる交通事故事件以外で強制執行が功を奏することは滅多にないので、弁護士にとって和解こそが有り難いこと(ア)など。特に、奈良の古い土地柄のせいなのかも知れないが、依頼者は、まず、弁護士にどんな事柄を「事実」として伝えるかを親族郎党が集まって話し合い(第1の歪み)、その結果を踏まえて依頼人が取捨選択した「事実」を弁護士に伝え(第2の歪み)、弁護士も、裁判官が依頼者に不利な印象を持つのではないかと心配な事実は隠す(第3の歪み。第1、第2のゆがみとは異なり「嘘」はないものと信じたい)ので、実際に法廷に現れる「事実」は実際の事実とはほど遠いものになる(イ)と教えられたことは、その後の民事訴訟における私の事実認定手法に大きな影響を与えている。
2 破
ところで、裁判所には色々な俚諺が伝わっている。民事事件については、「乞食と民事単独は3日やったらやめられない」や、「和解裁判官になるなかれ」などが有名である。
前者は、正にそのとおりであった。
何がそう思わせるのだろうか、と改めて考えるに、多分、自動車の運転が楽しいのと同じではないかと思う。だから車の運転が嫌いな人はそうでもないかもしれない。
民事単独裁判官は、裁判について誰にも忖度する必要はなく(My Court)、自らの思うがままのところに行くことができる、正に我が世の天下である(筈である。少なくとも私にとってはそうであった)。
勿論、当事者の請求や主張あっての裁判なのであるから、「思うがまま」といっても自ずから限度がある。しかし、車の運転だって道路のある場所にしか行けないし、それがなかったらかえって「自由」は感じられないだろう。
ただ、「運転」をするには、「目的地」を決めないといけない。そして、その目的地に向かう車に、双方当事者及び代理人に気持ちよく乗って貰うためには(さもなくば、彼らは運転の邪魔をする筈である)、その「目的地」が双方当事者も行きたいと思う所であると納得してもらう必要があるから、当事者に対してはそれなりの気遣いが必要であることを忘れてはならない(注8)。
後者(和解裁判官になるなかれ(注9))については、私は弁護士から聞いた上述(注7ア)のことから、「不当訴訟」と思った事件を除いては、敢えて「和解裁判官」になるよう努めた。そして、私は、原則(注10)、①大まかな主張が出て私から主張整理のための求釈明をする際、②人証の採否決定をする直前、③人証を聞いた直後、の最低3回は話合いの機会を持った(注11)。
もっとも、私は上述(注7イ)のことなどから、③の場合はともかく(その場合も真実は神のみぞ知るであるが、人間である私が判決しなければならないので、自信はないが仕方なく、という風を装った)、①及び②の場合は、各当事者に個別に主張や証拠の弱い点を示唆して譲歩を迫ることはあったものの、判決の結論を示唆するような心証開示をして和解を迫るようなことは、決してしなかった。
私の経験からも、「心証開示」ほどおそろしいものはない。署名押印について争いがない処分証書から、一方の勝訴が間違いないと思いつつ、念のため、「負ける方」の当事者本人尋問をしたところ、その処分証書が当事者意思に基づかないと「確信」して「心証」が逆転したことは何度もあったし、一審で提出されなかった重要な書証(所持していた人が、判決で勝つべき者が負けたことを知って提供したと推察された)が控訴審で提出され、同審において、私も納得の逆転判決がされたこともあった。
つまり、一時の「心証」など、全く当てになるものではないのである。
最近、早期に心証を示すことが推奨されているのかもしれない(広島地裁における一審協の議論からも、それが伺われる)。
しかし、双方当事者が裁判所の示す心証はやむを得ないと思ってくれるような案を示せればともかく、これから裁判官に話を聞いてもらい、裁判官に自らに有利な心証を得てもらおうと思っていた矢先に、自らに不利な心証を開示されたら、その当事者は、裁判官に対する信頼を失って、裁判官に心を閉ざすとともに、所謂「高裁勝負」の決心をさせ、何とか同裁判官に控訴審で破棄されやすいような判決を書かせるためのトラップを仕掛けることに傾注するほかなくなる。
そもそも当事者は、「真実」(それがある事実についての「解釈」であったとしても。以下同じ)を実地に体験していることがほとんどである。その当事者の話も聞かないまま「真実」(同)とは全く異なる相手方当事者の「嘘」を「真実」だと断定された当事者は、まず途方に暮れ、次に、裁判官の能力やその「人」そのもの(裁判官のの公平性など)を疑い(私は、弁護士になってから、未だに、裁判官が様々な外部的「影響」(賄賂や政治家、裁判所長などからの圧力)を受けて裁判するのではないかと疑う人の多いことに驚いた)、ひいては国民の裁判所に対する信頼を揺らがせる結果になることを、全ての裁判官は肝に銘じるべきである。
(注8)「目的地」を指し示す責任は裁判官にある。さもないと、訴訟は「漂流」する。目的地は訴訟の場面場面において異なるが、通常の能力を有する裁判官は、訴状と請求原因に対する認否等が書かれた答弁書が出た段階で直ちに想定される事件類型とその類型の主張立証責任及び各類型ごとのあるべき証拠と(信用できる)証拠の有無による幾つかの判決主文がフローチャートとして頭に浮かぶ。そこで裁判官は、そのフローチャートに沿って、双方当事者に、事件類型確定のための質問をして、それが確定すると足りない主張の示唆やあるべき証拠の存否を確認するなどして、それぞれの時点における「目的地」を示すのである。
(注9)思うに、この俚諺は当事者が判決を求めているのに判決するのを面倒がって「和解で転がす」(私が奈良地裁葛城支部に赴任した際の前任裁判官(同裁判官は、後に大阪高裁民事部総括となった)が正にそうであった)ことを戒めるものだと思う。
(注10)本文に記載したのは、事実に争いがある場合の話であって、事実関係に争いが(ほぼ)ない交通事故事件等では、当事者の求めに応じて自らがするであろう判決の主文を前提とする和解案を提示したことがあるのは当然である。
(注11)裁判官にとって、①の和解は、上記フローチャートを作成するための情報収集の意味もある。②は、上記フローチャートが完成しているのでそれぞれの場合の結論を見据えての和解勧試ができ、③は、殆どの場合、判決するための心証が形成された上での和解勧試である(もっとも「判決を書いてみないと分からない」と言って、「そんな危険を冒すより和解しろ」と迫ったこともなきにしもあらず)。
3 急
私は、「奈良弁護士会準会員」だった頃、奈良弁護士会主催で行った一般向けの集会で、奈良弁護士会会員らがした演劇を指導した演出家に指導者になってもらって弁護士や弁護士事務所の事務員らで結成された演劇集団に加わり、何回かは大きな会場で「役者」をした(役者も3日やったらやめられないものの一つである)。
実は、その経験は、私の裁判の運営にも大いに役立った。
思うに、演劇をするには、必ず「脚本」(業界では、単に「本」と呼ぶ)が必要であるところ、刑事裁判は、ほとんどの場合、公判期日前に決められた筋書きのとおりにことが進むから、確定した「本」のとおり物事が進むといえる(それも、刑事裁判がつまらない理由の一つである)。
それに対し、民事裁判では様々なハプニングが起こり得るし、それによって結末も変わっていくから、民事裁判は一種の即興演劇といえる。
演者は、私と双方代理人及び当事者。
時には代理人や当事者の思いもよらない反応に出くわすが、それをアドリブで返すのもまた愉快。
即興演劇といえども、十分な準備は必要である。
能でいえばシテに当たる裁判官が、ある発言をすると、ワキに当たる当事者代理人がどのように反応するかを予想し、それに対してシテがどのように対応するか色々な場合を想定しシュミレーションしておく。
それを繰り返しておけば、予想と異なる反応があった場合でも比較的余裕を持って対処することができる。ときにはツレに当たる書記官にもその演劇に参加してもらうことを想定して、書記官(ツレ)に役柄をお願いしておく。
信頼関係が構築できた双方代理人と打ち合わせて、双方当事者に「飲ませる」和解案を作成した上、それを当事者に納得してもらうためにシテとワキそれぞれが演じる「本」を作成した上、当事者双方(あるいはその和解案に納得しない一方当事者)の前でシテとワキが演じることにより、その当事者に和解案を受け入れさせる「和解成立劇場」を演じたこともある。それが成功したときの満足感といったら、それ以上のものはなかなかないといえるほどである。
本人尋問や証人尋問については、代理人と打ち合わせることはできないが、それでも十分に記録を読んだ上で、主尋問、反対尋問を聞いていると、補充尋問すべきこと、その聞く順番や聞き方等が、即興で脳裏に浮かんで尋問のシナリオを作れる。そして、そのシナリオに沿い尋問することにより、思いもよらない「事実」についての陳述を得て、事件が「解決」したり、急遽和解に至ったりしたこともある。
そのような審理は、それ自体一個の素晴らしい演劇であり、私は、そこで演じつつ、同時に観客ともなって、法壇の上で笑い、感動して泣いて、裁判官室に戻ると「ああ、面白かった」と言ったことは度々であった。
かように、民事単独事件の担当は、「楽しい」のである。
しかしながら、私が福山支部を去った平成26年春、私は既に裁判官生活31年目を迎えていたため、現在の最高裁の人事政策上、特別に差別を受けた裁判官(注12)でない限り、一審で民事単独裁判を行うことはできない期(年齢)に達していたことも一つの大きな理由となって、私は、裁判官を辞したのである。(以上)
(注12)最近でも、地方の一人支部で定年を迎えようとする裁判官もいないではない。私もそのような処遇を受ける可能性が十分にあったであろうが、真相はともかく、私は、そのような一人支部で定年を迎えさせるにはもったいないほど「仕事だけはする」と思われていたと自惚れている。