2019.01.24
今、大阪のホテルでこのコラムを書き始めた(公開するのは、後日になろう)。今日(平成31年1月22日火曜日)は、午後6時から大阪弁護士会館で「石松竹雄さんを偲ぶ会」があり、午後2時半で仕事を切り上げ、新幹線(ずいぶん前に案内をもらったので、JR西日本の格安企画乗車券・特急券(おとなび早特。安いが、各駅停車の「こだま」である)を使えた。明日の帰りもそうだ)に乗った。平日に気軽にこういうことができるのも、裁判官時代とは大いに異なることである。
裁判官時代は、平日に何か興味のある集会や会議に出席したいと思っても、自分の単独事件の法廷は自分ひとりで休みにできるとしても、令状(勾留・逮捕・捜索差押・保釈等)や(民事)執行当番が当たっていたら他の裁判官に代わってもらう必要があったし、合議事件については、他の2人の裁判官の了解を得て休廷日にしないといけないことなどから、結局、出席を諦めざるを得ないことが多かった。
しかし、弁護士となった今は、自分と事務局(といっても、1月から来てもらうことになった事務員さんが管理しているもの)の訟廷日誌(予定表。裁判官時代の「期日簿」に相当する)に、斜線を引くだけだ。
やはり、弁護士は、その意味で「自由」だ(注1)。
石松さんは、大阪では有名な元裁判官で、退官後は弁護士となり、主に刑事弁護を担当されたほか、いくつかの本も書かれ(この説明には、それにとどまらないと、先輩諸氏から批判の嵐を浴びそうであるが・・・)、昨年(平成30年)9月17日に93歳で亡くなった。
私が初めて石松さんをお見かけしたのは、任官後、ほぼ毎回参加した全国裁判官懇話会(注2)でであったろうが、間近に接したのは、堺支部に転勤後で、多分、石松さんが退官された(注3)のを機に、自主的会合に集まった若手裁判官に話をしていただいたときだったように記憶する。そのとき、これは、(体制派であった)石田和外最高裁長官が、国民の声など雑音に耳を傾けるなという意味で言われた言葉だが、と前置きした上、最高裁の圧力に屈するな、という意味で、「裁判官は激流の中に毅然として聳える巌の如くあれ」と言われた(ように記憶する)のが印象に残っている(注4)。
というわけで、現役時代の石松さんと私との間に直接的な接点はなく、私は主に関西にいたものの、どちらかというと民事畑の裁判官であったから、弁護士になった後の石松さんと法廷でお目にかかったこともない。しかし、私は、定期的に開かれていたある自主的な会合で、年に2〜3回の割合で石松さんとお目にかかってお話をうかがっていたから、石松さんと親しく接していただいたことがあったし、上記の全国裁判官懇話会(略称「全裁懇」)に参加していた(大方は)元裁判官らと会いたくて大阪に向かったわけだ。
予想通り、昔、私が全裁懇でお会いした沢山の懐かしい元裁判官ら(注5)や、弁護士も交えた自主的研究会とか、私の担当した事件の法廷などでお会いした弁護士、顔見知りの編集者らと顔を合わせ、私が弁護士になったことを告げて挨拶したりし、会終了後は、私が非常に影響を受けた元裁判官や弁護士らとともに中華料理店で二次会を楽しんだ。
とても有意義な一日であった。
(注1)弁護士にも、当番弁護士に当たったり、弁護士会主催や市役所等で行う法律相談の当番が回ってくるが、私は新米弁護士で研修も終えていないし、すでに3月末までの当番が決まっているため、まだそれら当番には当たっていない。将来的には、それらの当番が当たって会合等への出席を諦めざるを得ないこともあるのかもしれない(別の弁護士に依頼して、当番を代わってもらえるかもしれないが)。
(注2)全国裁判官懇話会と私との関わりついて書き始めると際限がないから、同会について記すのは後日に期したい。なお、ネットでも多くの情報が得られると思う。
(注3)石松さんは、平成2年3月に、大阪高裁部総括裁判官で退官された。
(注4)全く違う言葉で、同じ趣旨だと思われることを、私が初任で広島地裁に赴任し、初任者研修の一貫として元広島高裁長官松本冬樹さんからもうかがったが、その後調べた松本冬樹元裁判官の経歴等を含め、いつか、別稿で詳しく記したいと考えている。
(注5)特に、先輩裁判官から何度もお名前を聞いていたにもかかわらず、全裁懇でお見かけしてもお声を掛けることがはばかられ、直接お話しする機会がなかった「伝説の元裁判官」とでもいうべき花田政道さん(花田さんについては、いつか触れることもあろう)と親しくお話しし、会終了後、花田さんを、その娘さんが予約されていたホテルまでご案内できたことを記しておきたい。