広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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この1年

2019.12.31

 2019年の年末は、国選弁護人を務める罪体ではないが検察官主張事実を一部争う被告人との接見や保釈請求、同様国選弁護人を務める被疑者(罪名は裁判員裁判になるものだ)との接見やその親族・関係者らに対する連絡や面談、法テラスから依頼された出張相談(深刻かつやっかいな事案だ)、そして、たまたま私のコラム(「後見事件について(1)〜(3)」)を見て相談に見えたことから関わることになった成年後見制度による「被害者」からの依頼事件についての種々の申立て等(特別抗告を含む)で、ギリギリまで忙しかった。来年も、早々からそれらの事件で忙しくなりそうで、今も、それらの訴訟準備をしたり、今後行なう手続の構想が次々頭をよぎっている状況であるから、司法制度論や裁判官論についてのコラム原稿を完成させる時間的・精神的余裕はなさそうだ。
 このコラムを読んでくださっている方もそこそこいらっしゃるようであるし、1か月に1つはコラムを書くという宣言を先月破ってしまったので(代わりに、不完全ながら「料金及びお問い合わせ」のページの報酬基準を補筆した)、この1年を振り返るエッセイで、その責を果たしたい。
 
 この1年を振り返って特に印象に残るのは、法律相談や、法律事務の委任に見えた方から、社交辞令かもしれないが、よくお褒めの言葉をいただいた反面、他の弁護士の法律相談や委任事務について批判めいた苦情をよく聞いたことが挙げられる。余り具体的には書けないし、そもそもその相談者が正確に認識していない可能性も高いが、法律的に間違っているのではないかと思うことを言われていたり(私もその例外ではないだろうから、自信のないときは他の弁護士にセカンドオピニオンを求めるよう依頼することもある)、世知辛い(注1)というか、サービス精神に欠けるとしかいえないような対応をしている弁護士がいるようだ。
 もっといい客がいて、その相談者や依頼者と関わりたくないからなのかもしれないが、それならはっきりそう言って断るべきで、弁護士(業界)に対する信頼を失わせるようなことはしないほうがよいのにな、と思った次第である。
 もっとひどいのではないか(弁護士として不当ないし違法な行為ではないか?)と思う事案にも接したが、それについては今後も関わっていくつもりで、いずれ黒白付けたいと思っている。
 このコラムには、主に裁判所や裁判官、法制度について、こうなればよいのにな、と思うことを書こうと思っていたのであるが、やはり、弁護士になると弁護士のことがよく見えてきて、関心がそちらに移りつつあるのは、ちょっと予定外である。
 
 とはいえ、弁護士になった後に接した裁判についても少しは記しておきたい。
 裁判のうち、刑事事件については、原則、国選弁護しかしていないし、いまのところ、本格的に無罪を主張した事件の経験もない。ただ、当番弁護士として勾留中の被疑者に接見に行ったら、頼み込まれて私選受任して示談に奔走し、起訴猶予となったことや、少年の被疑者国選弁護人として示談できたためか、観護措置を回避できたりした経験は、常に判断し、文章を書く仕事しかしない裁判官には無縁の、いわば、その対極の仕事で、依頼者には喜んでもらえるものの、未だに何となくそれでよかったのかな、と、何とも居心地の悪い気がしている(注2)。
 勾留等についての準抗告や保釈請求も結構したが、大体、私には結論(棄却または却下)が見えていて、そのとおりになる。ただ、被疑者や被告人に、その理由書きの部分を説明しながら読み聞かせたとき、「えっ、それだけですか?」とか、(理由中の記載について)「そんなことはないですよね?」と言われると、私も「そうだよなぁ」と、その言に同意せざるを得ない。「実務」はこうだから、という一種の「諦め」で自分もそんな裁判をしていたなぁと恥ずかしくなる。
 恥ずかしいというか、本当にいたたまれない(息苦しいといってもよい)気持ちになったこともあった。それは、たまたま紹介があって私選受任した刑事事件の控訴審判決(控訴棄却)の宣告を聞いたときだった。弁護人ら(私を含む)の主張は、それなりに理屈が通っているのであるが、「結論ありき」で、とにかくその主張を排斥するため、屁理屈、揚げ足取り、紋切り型の説示(etc…)を聞かせ続けられる。
 それは、私が高裁で、自分にとっては不本意だが裁判長のいう結論で起案したとき、あるいは、これは民事事件であるが、多分、原判決の認定と真相とは違うのだろうけれど、結論が変わるとまではいえないし(結論が変わりそうなときは、異なる意見の裁判長と徹底的に戦ったつもりである)、控訴審で一から主張整理や証拠調べもできないからと、無理やり原判決の認定を維持して控訴棄却したとき、自分もこんな判決をしていたなぁと、あのときの苦々しい思いがこみ上げてきたせいだと思う(注3)。
 民事事件については、和解や調停で終わった事案はあるが(注4)、判決にまで至った事件は、まだ第一審の最終段階とか、控訴審から関与した事件がほとんどである。それらの判決は、いずれも不本意なもので、特に、事実認定について、底が浅いな、と思うことが多い。
 高裁で民事事件を担当し、控訴されてくる一審判決(ときには、同一紛争について、高裁の他の部にかかった事件の控訴審判決)を読むようになって以降、私自身、裁判所内部では言い続けてきたし、寺田逸郎最高裁長官も毎年2回の挨拶で述べていたことであるが、「紛争の実相を捉えた深みのある判断」ではなく、ここでも「結論ありき」で、表面的に証拠を捉え、その裏側にある事実の可能性を「想起」し、その事実を前提に証拠を見直してみるというプロセスを欠いた判断が多い、という印象であった。
 今は、刑事裁判(身柄関係事件は除く)より民事裁判の方に問題が多い、という最近の裁判所についての私の思いは、弁護士になった今も変わっていない。
 
(注1)ある弁護士が、勝つために、私の言動について「嘘」を書いた書面を裁判所に提出したことには驚かされたが、これも「世知辛い」の範疇なのであろうか?
(注2)なぜ「居心地が悪い」のか、自分でもはっきりしない。多分、私が(被疑者の家族とともに)「被害者」と会って示談書を書いて頂いたことについて、本当に、「被害者」が本心からそれを書いてくれたのか、私の「弁護士」としての「威圧力」みたいなものが影響していたことは否定できないから、本当は違うのではないか、という(どちらかというと確信的な)不安があるからではないかと思う。
(注3)苦々しい思い、というのは、民事高裁の和解の席でもあった。自分としては、控訴人の主張が正しいと思うのであるが、どれだけ議論しても裁判長がウンと言わないので控訴人に和解を勧めるとき、裁判長とのやり取りを明かしたいが明かせられない苦しさがあった。
(注4)和解や調停は、いまのところ勝訴的なものばかりだし、そもそも当事者も私も納得の上で成立させたものなので、満足感が高い。やはり、裁判官時代から思っていた「民事は不当訴訟以外和解が一番」というのは、そのとおりだと確認できた思いである。