広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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ある元裁判官の履歴書(6)[広島地裁1]

2019.09.01

 「ある元裁判官の履歴書(5)」のとおり、私は、裁判官に採用された際の出来事(修習中の出来事もあった)や、熱海での新任判事補集中研修での出来事で、「やってられんわ」とは思ったものの、私が裁判官になったせいで裁判官になれなかった人がいると思うと、容易に裁判官を辞めることはできなかった。また、そもそも「裁判所改革」をしようと考えて裁判官になることを目指し、そして、その通り裁判官になったのであるから、(その時点で、「到底ムリ!」とは思っていたものの)裁判官を「やめさせられる(すなわち、再任拒否される)まで」、初志を貫徹しようと決意した。
 
 初任の広島地裁では、刑事1部(の左陪席)に配置された。後に聞いた話では、本来、刑事2部(谷口貞裁判官(注1)が部総括)に配属される予定であったが、谷口裁判官がご病気になられたため(注2)、急遽、刑事1部の左陪席であった私より2期上(33期)の大段亨裁判官が刑事2部に移り、その後に私が配属されたということであった。
 着任当初の思い出として3つのことを指摘しておきたい。
 
 一つ目は、東京から、家族3人(長男がまだ生後5か月だった)で、四日市市の私の実家に一泊した後、新幹線で広島駅に着き、雨の中、確かタクシーで広島地裁裏の官舎に着いた際、トラックが停まっていて、沢山の人が荷物を運んでおり、近づくと、それらの荷物が私たちが入居する筈のC棟3階の部屋(3304)に運ばれており、驚いたことだ。
 そのときの私の気持ちは、私たちが着くまで荷物を入れるのを待ってもらうことになっていたのにと運送会社を怒る気持ち、きっと、この男の人たちは広島地裁の人たちだろうが、私が運送会社のトラックが着くより遅れてきて、どのように思っているだろうか、という恥ずかしい気持ち、そして、この人たちにお茶やお菓子を出さないといけないだろうが、初めての場所で一体どこに買いに行けばよいのだろうかという不安な気持ちがない混じった複雑なものであった。
 荷物を入れ終え、その男の人達から挨拶を受けて、その人達が、私の所属する刑事1部の事務官や書記官で(だったような記憶だ)あることを知った。そして、その人達は、荷物を入れ終えるとさっと引き上げたので、特にお茶等用意する必要もなかった。雨の中、非常に助かったし、何より、私達に負担をかけないようにという気持ちが伝わった。
 私が任官した当時は、このように、裁判官の引っ越しを裁判所の職員が手伝ったり、裁判官が転入したり(注3)、転出する際には、職員や裁判官までが(上記谷口裁判官が岡山家裁に転勤される際には、私も広島駅まで見送りに行った記憶がある)、皆で駅まで迎えに行ったり、見送りに行ったりすることが通例だったようだ。
 このような風習も、裁判所の本来の仕事を優先させるため、その後、間もなくなくなったように思う。
 このような風習は、牧歌的でよかったという評価も可能かもしれないが、その実、裁判官と他の職員の格差みたいなもの(なお、昔は、地元の資産家の子弟が裁判所に務めることも多かったらしく、裁判官よりもずっとお金持ちの裁判所事務官も珍しくなかったから、必ずしも裁判官の方が金銭的に恵まれているということではなかった)を感じさせる風習なので、さっぱりしてよかったと思う(注4)。
 
 二つ目は、Sさんのことである。
 私は、当時、裁判所における「裁判官」の「位置」というものがよく分かっていなかった。司法修習生として東京地方裁判所に刑事、民事合わせて8か月(うち、2週間くらいは東京家庭裁判所にご厄介になった)通ったものの、あくまで「お客様」であったから、私は、新米裁判官として裁判所の所属職員となった以上、少なくとも裁判官室の末席である私が、その掃除くらいはしなければならないのではないかと思っていた。そこで、私は着任した翌日、まだ誰も来ていなそうな早めの時間に刑事1部の裁判官室に行って雑巾を探し出し、掃除を始めた。
 ところで、刑事1部の裁判官室と刑事2部の裁判官室は、内扉でつながっていて、刑事1部の廊下側の扉を開けたところに、「秘書」のSさんが座っており、刑事1部と2部を担当していて、着任当日ご挨拶したのであるが、私が掃除をし始めたのを見て飛んできて、私がしますから、というようなことをおっしゃった。私は、内心、「そうだろうなぁ、掃除なんかは秘書の仕事だろうなぁ」などと思いつつも、Sさんに、「まだ新米だからこれくらいのことはしないと・・・」などと言ったと思うが、それに対しSさんは、「雑用は私たちがしますから、裁判官は、しっかりと正しい裁判の仕事をしてください」という趣旨のことをおっしゃった。
 そのとき、私は、自分の「裁判官」の仕事についての甘い気持ちを見透かされたような、ハンマーで頭を殴られたような気がするとともに、その責任の重さを感じた。
 Sさんは、朝のお茶、昼のお茶、午後3時のお茶(たしか、午後3時は、紅茶かコーヒーだったような記憶だ)を出してくれたり、私達裁判官と事務局との諸々の連絡等、かゆいところに手が届く働きをしてくれた。調子に乗って、子供の世話でノイローゼ気味になっていた妻に依頼された官舎の光熱費の払込みを依頼して、部総括裁判官に「奥さんがいるのだから」と注意されたこともあったが、単身者はそれもOKだったように記憶している。
 このような、裁判官室に控える「秘書」の制度も、裁判所ごとにあったり、なかったりのようであるが(それぞれの高裁管内ごとに特徴があったのではないかと思う)、私の経験では、間もなく裁判官室に配置された「秘書」の制度はなくなり、朝のお茶出しやお湯の準備、食器洗い等の「雑用」は、総務課などに配属された(新人)女性職員などがしてくれる時代が長く続いた。そして、いつの頃からか、その仕事を事務局がしなくなって、所属部の書記官室の担当となり、その後、それが負担になるというので、お湯の準備と食器等の洗いのみは書記官室の当番がしてくれるが、お茶は裁判官が自分で入れるようになり、最後には、それも、忙しい書記官(事務官から書記官への予算人員の転換が進んで事務官の裁判部への配置が少なくなり、なんでも書記官がしなくてはならなくなった)に申し訳ないと、お茶はそれぞれの裁判官が自分でペットボトルを買って出勤する(私は水筒を持参した)ようになって、そもそもお湯の準備も必要がなくなってきた、というのが、裁判官の「お茶」問題についての歴史の流れではないかと思う。なお、裁判官室の「掃除」については、扱う事務の「秘密保持」の関係から問題がないわけではないと思うが、裁判所速記官の養成停止にともなって導入された尋問調書の録音反訳の「外部委託」がなされるようになった頃からそれ軌を一にして(問題の根っこは同じだから、私にはそのように思われた。なお、これらの問題については、また記す機会もあろう)裁判所の外から来る業者に「外部委託」されるようになった。
 
 三つ目は、新任判事補研修の一環として、「裁判官の身分保障について(3)」でも触れた、松本冬樹さん(元広島高裁長官で、御退官後、広島県の公安委員会委員長等もされていたらしい)のお話をうかがったことである。
 その日の衝撃と言ってよいのか、感激といってよいのかは、未だに、私の脳裏に焼き付いている。
 いろいろとよい話をうかがったのであろうが(そのときのノートが実家に残っているはずであるから、必要があれば、将来補正したい)、記憶に残るのは、次のお話である(松本さんがおっしゃった言葉そのものでないことは当然で、私がこのように受け取った、ということである)。
 「高裁や最高裁で破れないようにと思って裁判をしてはならない。裁判官は、そのようなことは一切気にすることなく、正しいと思う裁判をしなければならない。仮に、その裁判が高裁や最高裁で破れ、結果的にはその当事者が敗訴したとしても、その当事者は、高裁3人、最高裁5人の合計8人に対し、一審の1人だけでもよい、その裁判官だけには分かってもらえた、ということで、どれほど救われるかわからない。最高裁の判例があっても、それが間違いだと思うなら、それに従わなくてもよい。自分の信じるがまま裁判しなさい。」
 私は、司法修習中に出会ったどれほど「進歩的」と思われた裁判官や弁護士よりも過激と思われたその言葉を聞きながら、この人が、本当に広島高裁長官まで務められた方なのであろうかと疑い、かつ、いぶかしく思いつつも、その力強い言葉に酔った。そうだ、そのとおりだと思った。
 34期、35期の裁判官及び新任判事補を指導する立場の裁判官が、その言葉を聞いてどう思ったか、私は聞けなかった。聞こうとも思わなかった。多分、その当時、裁判官があるべきとされていた裁判官像(上記「裁判官の身分保障について(3)参照)と真っ向から反するこの言葉をそのまま肯定する言葉は聞けないだろうし、私が、松本さんの言葉を肯定する意見を言い、それに反対する意見を聞かされるのが嫌だ、という思いだったのだろうと思う。私は、ただただ、私の心の奥底に、松本さんの言葉をしまいこみ、大切に大切にしようと思った。
 その後、松本冬樹さんについて調べたことは、別に記したい。

 
(1)判例タイムズ453(1982年1月1日)号30頁に、昭和56年10月、広島配属の司法修習生に対し、谷口さんが「無罪判決について」という演題でなさった講演記録(補筆後のもの)が掲載されている。
(2)私は、大段裁判官が確か研修だったように記憶しているが、一時広島地裁を留守にされた際、刑事2部の係属事件に「填補」(てんぽ)裁判官として入らせていただいたが、その際、無罪判決を何度もなさった「リベラル」な裁判官として尊敬していた谷口さんから、「あなたと一緒に仕事がしたかった」と言われて感激したが、その後、このような事情があったことを知った。なお、私が谷口裁判長の訴訟指揮等から受けた影響は数知れないが、特に、谷口裁判長が、同意書証として取り調べを終えた証拠のうち、写真等、要旨の告知(書証の内容を検察官ないし裁判官等が読み聞かせること。刑事訴訟規則203条の2)では被告人が知り得ない(目で見ないとわからない)証拠については、法壇の上から被告人に向けて、その証拠(写真や図面)を、一枚一枚「ん、」示すのを見て(司法修習中も、刑事1部の法廷でも、そのようなことは見たことがなかった)、証拠調べは、「新刑訴派」(これは、またいつかお話する機会があろうが、私は批判的である)の言うように、裁判官が法廷で心証を形成する手続きではなく、むしろ、被告人が、いかなる証拠で裁判を受けているのかを知らしめる手続きではないか、と思わされ、その後の私の刑事訴訟観(もちろん、私独自の刑事裁判手続を含めて)を形成するのに大いに役立った。谷口裁判官の御冥福を祈るとともに、ここに感謝の意を表する次第である。
(3)たしか、私は、(出迎えを避けるため)広島駅に着く新幹線の時刻等をあえて伝えていなかったせいで出迎えがなかったように思っているが、もしかしたら、もう、その当時、転入の際の駅での出迎えの風習はなくなっていたのかもしれない。
(4)もっとも、所長や長官の転出や、高位の裁判官が退官する際などに、多くの裁判官を含む職員が裁判所の玄関に集まり、転出等する裁判官がそれらの職員に順に挨拶し、大抵は女性職員から花束贈呈を受けた後、職員らが公用車の後部座席に乗って手を振る裁判官を拍手で見送る、という「儀式」は比較的最近まで残っていたように思うが、私は、この裁判所(他の官庁や地方公共団体でも同様だろうが)の「風習」だけは、裁判所が、一般国民に開かれた「施設」であって、この「儀式」の際にもそれら裁判所利用者が出入りすることから考えて奇異の感を否めず、こればかりは、裁判所に入った当初から違和感を覚えていた。