広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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ある元裁判官の履歴書(4)

2019.03.07

「ある元裁判官の履歴書(2)」の本文で触れたとおり、父は、製材所も備えた比較的大きな材木商であった(注1)父の実家で働き、毎日そこに出勤していたようだ。そこで、私は、妹が生まれるまで日中母と二人で過ごしていたが、「ある元裁判官の履歴書(3)」の注4のとおり、たしか、私が小学1年生のとき(注2)父が独立し、自宅で、主に当時製造が開始された新建材(プリント合板。「カッパプリント」という製品があったと記憶している)や、建具材を扱う材木屋を開業した。子供の頃母に聞いた話によると、父は、祖父の経営する実家の材木商を継ぐつもりであったが、祖父母が、成績優秀で東京の財閥系の会社員となっていた父の兄を実家に呼び戻して実家の材木商を継がせることになり、父は、祖父から300万円を渡されて、実家の材木商を辞めて何か商売をしろ、と言われ、「ボテ屋」(廃品回収業)でもしようか、と母に相談したが、結局、父の実家と競合しない新建材を主に扱う商売を始めたということだった(注3)。しかし、私が大人になってからそのことを父に話したら、父の兄が実家の商売を継ぐことはずっと前から決まっていて、父の兄は、戦後すぐ四日市に戻っていたということだった。たしかに、もし父が実家を継ぐつもりであったのであれば、実家にそのまま住んでいたはずであるのに、祖父が、父と母が結婚(戸籍上、昭和31年6月25日となっているが、両親から、結婚記念日は3月15日で、母が21歳だったと聞いているから、多分、昭和30年のことであったろう)する前から、父の実家とは相当離れた国鉄(今のJR)四日市駅にほど近く、隣が大きな製材所であったほぼ1000平米ある広い場所の南西角に、父のために商家用の建物を建ててくれていたことを考えると、すくなくとも昭和29年頃には、父が実家から独立して商売をすることが決まっていたと考える他ない。したがって、母から聞いた話がどれだけ真実に沿っていたのか、また、果たして母から聞いたという私の記憶そのものが正しいのかについても自信がなくなってくる。
 
 私が新聞を読み始めたのは、私が小学3年生の頃、当時のテレビの歌番組「夜のヒットスタジオ」に出演する歌手(小川知子などが好きだった)を確認し、その頃親に買ってもらったソニーのオープンリールデッキ(録音機)でその歌を録音するため、テレビ欄を読む習慣ができてからであった記憶である。そして、徐々に他の部分を読むようになるうちに、憲法違反を認める判決や無罪判決に注目するようになり、なぜか気分が高揚したことを覚えている(注4)。しかし、その頃、自分が将来裁判官や弁護士になるなどとは全く思っておらず、なんとなく、父の跡を継いで材木屋になるのではないかと考えていた。
 そして、今から振り返ると、その後の私の人生に大きな影響を及ぼしたのは、小学校6年生のとき、テレビで学生と機動隊との東大安田講堂攻防戦(注5)を見たことにあったように思う。
 ネットで調べると、それは、1969年1月18日〜19日のことであったようだ。私は、(本当は東大生は少なかったそうだが)東大のお兄ちゃんたちが、火炎瓶や投石で、武装した警察官らに立ち向かっているのを見て、日本一入るのが難しい東大の学生が命を懸けてやっていることが間違っている筈がないと単純に考え、仮に自分が大学に入るようなことがあれば、自分も東大のお兄ちゃんたちと同じような事をしなければならないと思ってしまった。その後、警察官(機動隊)が、個人の意思とは関係なく、国家権力の手足にすぎないと知ったこと、昭和4年生まれの父が、戦時中全く軍国少年にならず、戦争に志願していくやつは馬鹿だと思っていたと言うなど、どちらかというと国家権力を信用しない思想を持っていたことなどの影響もあって、私自身も、そのような、言うなれば反権力的な思想を持ったのではないかと思う。もちろん、日本赤軍をはじめとするいわゆる過激派の行動には、子ども心にも全く同意できなかった(単純に、体育系ではない自分にとっては、そんな活動などできないと思ったし、何より怖かった)。しかし、今日まで、私は、果敢に国家権力と対峙したあの安田講堂における学生の行動に、なんとなくシンパシーを持ち続けてきたように思う。
 
(注1)住込みを含め、沢山の男性が働き、荷台の長いマツダの三輪トラックで原木を運んでいるのを見た記憶がある。なお、父方祖父は、先の戦争中から戦後にかけて、四日市材木商組合の組合長をしていたそうで(戦後、四日市簡易裁判所の調停委員もしていたそうだ)、四日市市内の材木商の多くが四日市大空襲で倉庫が焼けてしまったが、祖父の会社は郊外にあって倉庫が焼けなかったため、陸軍から払い下げられた木材を全部引き取らざるを得なかったところ、戦争が終わって日本陸軍がなくなり、その代金を支払う相手がいなくなってしまった、という話を聞いたことがある。
(注2)子供の足で10分ほどの浜田小学校に、朝十数人が集まり、上級生に先導されて集団登校していた。1年生の春だった記憶だが、大雨の降る中、レインコートに傘をさして学校に着いた後、一人で1,2年生の教室があった古い木造校舎(たしか、3年生からの教室は鉄筋校舎にあった)に向かって歩いていたとき、水が浮いていて地面と思ったところが側溝で、びしょ濡れになってしまってどうしていいか途方に暮れていたとき、5年か6年生の男子児童2人に自宅まで送り届けてもらったこと、母がその2人の名前を聞きそびれたので、学校に報告したところ、校長先生が朝礼の際その話をして、2人の上級生を褒めた事を記憶している。
(注3)私が小学校高学年になるまでは、幼い頃、母から父が怖い人だときかされていた(実際は全く逆だった)せいで、父にそのようなことを直接聞く事ができず、母から、主として父の兄をかわいがっていた祖母の意向と聞いた記憶がある。しかし、それは、父が、どちらかというと祖母より祖父のことを尊敬していたことと、母が、姑である祖母を敬遠していたことから出た発言であったように思う。
(注4)具体的にどのような判決であったかは覚えがないが、歴史を紐解くと、私が小学3年生から6年生であった昭和40年台前半には、各地の地裁で公安条例違反や国家公務員法違反(争議)事件について無罪判決が出されていたし、私が12歳であった昭和44年5月には、宇都宮地裁で、後に最高裁で初の法令違憲判決(最高裁昭和48年4月4日大法廷判決)となった宇都宮地裁尊属殺重罰規定違憲判決も言い渡されたから、そのような判決についての記事ではなかったかと思う。
(注5)最近、同事件の当事者による回顧本がいろいろ出ているようであるが、私は1冊も読んでいない。