広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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ある元裁判官の履歴書(2)

2018.12.23

 私は、5歳のときだったと聞いているが、交通事故に遭ったことがある。そのとき、母のお腹に妹(昭和37年4月下旬生まれ)がいて、血を見ると生まれてくる子によくないと、病院に駆けつけた母が私と会うことを周囲から止められたそうだから、これらの情報が正しいとすると、事故は、私が5歳になった昭和37年の4月5日〜中旬頃のことになる。そのときの記憶が私の人生で最初の記憶かどうかは定かでない。母に嘘を言ったか何かで母を怒らせ、母が家を出ていったと思って泣きながら探したら、庭の隅に母が隠れていた記憶もあるが、その方が古いかもしれない。事故の瞬間はなんとなく、その後の2つのシーンは比較的鮮明に覚えている。当時、父はまだ父の実家の材木商に勤務しており、私は毎日のように母に連れられて青果商(野菜や果物、卵、乾物などを販売していたが、店は広く、顧客には八百屋や病院等もあって、規模は比較的大きかったように思う)を営む母方の実家の店舗に行って遊んでいたようだ。その事故は、その店の従業員の女性が自動車(といっても前輪が1個である自動三輪車)で商品を配達するのに私もついて行った際、丁度そのころ、四日市市役所前の交差点にできたロータリーを、その女性が本来の走り方である(左側から)右回りに走行すべきところを、右から左回りに回ろうとして、対向してきたタクシーと衝突し、自動三輪車が横方向に三回転した、というものだったそうである。事故の瞬間、私がその女性に抱き寄せられたこと、その後、通りかかった自動車の後部荷台に載せられて近くの救急病院に運ばれたようであるが、その際、荷台の上から後を見たところ、自動三輪車を運転していた女性が右(だったような記憶である)足から出血しながら立って、私の方を見ていたことは、何となくであるが覚えている。そして、その後、多分、父親に連れられ、私は右上唇付近にガーゼが当てられた状態で、私を病院に連れて行ってくれた人の店(?ふかふかのソファーに座り、低いテーブルの上に出されたオレンジジュースをストローで飲んだ記憶で、クラブか何か、夜、女性が接待しながら洋酒を出すような店だったように想像している。全く違うかもしれないが)に挨拶しに行った。その交通事故により、私は、唇の右上付近が横方向に切れて3針縫い、その傷跡が残ったこと(傷と縫い目のところだけ髭が生えない)と、上唇の右端が少し垂れ下がるというか厚くなる「後遺症」が残った。数年経ってから、両親に連れられて、自宅敷地東側の細い南北方向道路を挟んで向かいにあるセメントを紙袋に分包する工場の経営者の家に行って、帰省していたその家の医者になった息子さんに私を見てもらったことがある。その医師は、私の傷跡を見て、うまく縫ってあり、よりきれいになるよう手術するのは難しいだろうと言われたことから、私の「後遺症」は、傷跡の色が自然に薄くなったほかは現在もそのままである。そのとき、これでうまく縫ってあるのか、とちょっとがっかりした記憶が残っている。もっとも、私自身、普段、その傷跡のことについて全く意識していないし(私の顔を見る人は気づいているのであろうが)、そのことが、私の人生に何らかの影響を与えたこともないと思う(俳優などになりたかったのなら、影響があっただろうが)。母方の祖母(青果商の「社長」であった祖父は、武士の血を引く非常におとなしい人で、店先を掃除する姿を覚えているくらいで、実際に商売をしていたのは、農家の生まれで、戦後、鍋釜を売ったりして資金を蓄え、店を構えてそれを大きくした祖母であったと聞いている)は、私に対して非常に申し訳なく思ったらしく、友人らに比べて優に10倍くらいのお年玉をくれていた上、機会があるごとにお金や高価な品物をくれたので、むしろよかったかもしれない。(以上)