2019.02.09
幼稚園は、キリスト教系(日本基督教団(幸町教会)付属だからプロテスタント)の「双葉幼稚園」に年長の1年間だけ通った。当時、幼稚園も競争率が高かったのか、父が入園申込みのため夜中から並んだと、後に聞かされた。父は、自分のことを無神論者だと言っていた記憶だし(注1)、家から通える範囲に仏教系、カソリック系、公立(保育園だったかもしれない)の幼稚園もあったから、どうして私がキリスト教系の幼稚園に通うことになったのかはよくわからない。だた単に、家から一番近いということだったのかもしれない(注2)。
当時は、幼稚園に2年間行くのが普通だったようで、2年保育の年長組の同幼稚園児はたくさんいた(紫色のバッチをつけていた。同幼稚園のクラス名は、みな花の名だったが、紫色の何の花名だったかは覚えていない)が、私が所属した1年保育のなでしこ組(プラスチック製のバッチはピンク色だった)は3人だけで、クリスマス前に同幼稚園児総出で演じる聖劇(キリスト誕生の物語)では、なでしこ組の3人が揃ってターバンやマントのような衣装を身にまとって「3人の博士」(東方の博士。注3)をやった。
幼稚園では、日曜日も登園して大人の礼拝が終わった後に行われる(だったと記憶するが、幸町教会のサイトを見ると、現在、子供礼拝は大人の礼拝の前に行われているようなので自信がない)子供礼拝に出た(幼稚園は、月曜日が休みだった記憶)。私は、幼稚園で初めてキリスト教に触れ、礼拝のおごそかな雰囲気や、テレビから流れる歌謡曲とは全く違う美しいメロディーの賛美歌を大きな声で歌うのが気に入ったのだと思うが、幼稚園を卒園した後も、小学校の多分2年か3年生になるまで、子供礼拝とその後引き続き行われる日曜学校(と、当時は呼ばれていたように記憶する)に通うようになった。夏休みなどには日曜学校の合宿があって、たしか、当時教会から徒歩圏内にあったヘルスセンター(体育館のような広い場所にゼロ戦が飾ってあったような記憶がある)のプールで水着になって遊んだこと、日曜学校では、学年別(たしか、2学年ずつ一緒だった)に、子どもたちの先生役としてお兄さんとお姉さんがついてくれていたが(聖書について教えてくれたのは主にお兄さんで、お姉さんはアシスタント的な役割をしていたと思う。今思うと大学生か高校生だったのか?)、その合宿のとき、お姉さんがいつもとは違う軽装で、まぶしく感じたことを記憶している。
私としては、ずっと日曜学校に通いたい気持ちがあった。しかし、父が、私がクリスチャンになるのではないかという危機感を持ったらしく、私が教会に行くことに反対しだした。そうなると、私も父の反対を押し切って教会に通うまでの情熱はなく、結局、私も教会に行かなくなってしまった(注4)。ただ、私が教会学校に通ってキリスト教についての大まかな知識を得たことは、その後の私の人生に大きな影響を与えたと感じている。
(注1)もっとも、正月には、家族で四日市の総産土神である諏訪神社(同神社は、15世紀に「浜田城」を築城した田原美作守忠秀が、信濃の諏訪神社を勧請したといわれているらしい。四日市は、明治22年4月に四のつく日に市が立った市場町かつ宿場町であった四日市に、浜田村等が編入されて町制が施行されたが、私の生まれたときの本籍は「浜田3563番地」であったから、私の生まれた土地は元「浜田村」であろう)に初詣に行ったし、家族で伊勢神宮に出かけたときは、一緒に手を合わせた。また、実家には、私が独立した後に父が購入した仏壇があり、父が総代をしたこともある四日市市内の寺(父が生まれた四日市市末永町に隣接した町にある)の境内には、平成22年に母が亡くなった後に父が建てた両親の墓もある。
(注2)このあたりのことは、父が、教会に私が行くようになったことから私を双葉幼稚園に通わせたことを後悔していたこともあって、父の生前に聞きそびれてしまった。
(注3)聖書によると、東方の博士たちは、星を見て救い主イエスが生まれたことを知り、イスラエルの領主ヘロデ王にその旨伝えた上、生後間もないキリストを拝んで「黄金、乳香、没薬」をささげたとされている。
(注4)父は、私が小学校1年生の頃、自宅で木材業を始めたが、当初、休日は毎月1日と15日だけ(もちろん、正月と盆には休む)だった記憶である。しかし、いつの頃からか日曜日を休業日とするようになった。そうなると、日曜日、両親の起きるのが遅くなり、したがって、私も日曜の朝起き出すのがはばかられた(私が起きると、母が私の朝食を用意するため起き出すことになる)という事情もあったように記憶する。