2019.05.25
このコラムの冒頭文からも明らかなように、このコラムは、私のつたない司法制度論や裁判官論「も」書き綴りたい、いや、本当のことをいうと、内心そのことを主たる動機として立ち上げたものであることを告白せざるを得ない。しかしながら、それらについては、最近では現職の裁判官も含めて論者も多く、それゆえ、あえて一部重なる私見を披露する必要性に疑問を感じるようになったし、また、それ以上に、仮に私見がネット上等で批判的に取り上げられたら(裁判官をやめた身であるから、買いかぶりすぎかもしれないが)と思うと、反対意見や批判にも耐えられるようできる限り確実な資料に基づき、文章も練らなくてはと考え、どうしても筆が進みが遅くなった嫌いのあることは否めない。
さらに、私の弁護士としての受任事件はまだ数件とはいえ、その仕事は、道具としての法律については長年の経験があるものの、弁護士の仕事としてはいずれも私にとって初めてのことばかりで、そのための勉強や調査に割かなければならない時間や労力も多い。したがって、今、司法制度論や裁判官論について納得の行くものを書く時間的・精神的余裕はないから、それらはしばらく先送りすることとし(注1)、当コラムのあともうひとつのジャンルである半生記を書こうと考えた。しかし、これも、小学高学年から大学時代にかけては、それ以前のように、私の人格形成が両親や世の中の出来事などのみではなく、友人や知人等、多分に私が接した「人」の影響で行われたものであるから、それら友人知人等のプライバシーのことを考えると書けることが限られ、かといって、それらに全く触れないで書くのも難しい。司法試験受験~裁判官任官時のことは、私の半生記として是非残しておきたいことなのであるが、これも、友人知人等にとどまらず、私が接した法曹関係者等のことを考えると、やはり、それらをすべて明らかにするのは時期尚早の感が否めない。
そこで、「ある元裁判官の履歴書(4)」で書いた私の小学校時代以降、裁判官採用までのことは後回しにし、それ以降の時代について書き綴っていきたい(もっとも、この時代のことについてもまだ書けないことがあるので、それについては、将来書き加えることをご理解いただきたい)。
私たち35期の新任裁判官は、12大庁(札幌、仙台、浦和、千葉、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、福岡)のいずれかに配属され、そこで2年間、新人としての研修を受けることになっており、裁判官採用願の書類を作成する際、12大庁のうちから3つの希望地を書くことになっていた(注2)。私は、当時まだ反東京(権力)の気概があり、若干なりとも裁判官としての「自由」もあって、人権に配慮した裁判をすることも可能だと聞いていた関西の裁判所への配属を希望したかったが、関西の裁判所所在地のうち、京都は、大学時代に5年間住んだことや、どうも京都人が地方人を馬鹿にしているように感じていたので(注3)京都は避け、第一希望大阪、第二希望神戸と書き、第三希望は思いあぐねた上、ファンであった吉田拓郎(私が初めて自分で買ったLPは、彼の「人間なんて」であった)が世に出た「広島」を希望したところ、広島地裁に配属されることになった(注4)。
35期の任官希望者63人のうち5人が任官できなかったこと、その中には私の親しかった人もいたことやその経緯などについては将来記することにしたいが、私は、私が任官でき、彼や彼女が任官できなかったことについて、ある理由から相当の後ろめたさ(罪悪感といってもよかろう)を持って、採用の連絡を受けた後、日を置かずに熱海のホテルで行われた「新任判事補集中研修」に参加した(注5)。
その研修で講師となった最高裁事務局(だったと思う)員が述べたことのうち、2つの事柄については、今でも鮮明に覚えている(もちろん、記憶の変容があるかもしれないが)。
一つは、合議の際の評決について、こんなことを言われた。
我々新任判事補が任官1か月目に合議による裁判の左陪席として評議し、意見が分かれたとする。そのとき、仮に右陪席裁判官の実務経験が10年、裁判長の実務経験が20年とすると、それぞれの意見の重みは、我々左陪席は12分の1(0.083)、右陪席は10、裁判長は20である(だから、裁判長の意見に従え)。
これは、明らかに裁判所法77条に反する「研修」であって、私は内心呆れてものも言えなかった。今振り返ると、私は、そこでその「講師」に議論を挑むべきだったし、挑んだ場合、私が負けたはずはないと思うのであるが、弁解と受け取られても仕方がないが、当時、上述のとおり罪悪感に打ちひしがれ、最高裁は全く信用できないと思っていた私にその気概は全く残っていなかった。
もう一つは、いわゆる団体に所属してよいか、という問題についてである。当時はまだ、青法協に所属している司法修習生が任官希望する事例があり、その中には、採用願を出す前に、青法協に対して脱退届を出し、その写しを司法研修所の教官に提出するということもあったらしく(注6)、その講師の話は青法協を前提とするものだと思ったので、私は、これには反対されないだろうと思いながら、念の為と思って次の質問をした。
「私の子は、ある病気に罹っているが、同じ病気の子を持つ親の会に加入している。その団体への加入は問題ないでしょうね?」と。
それに対する講師の返答は次のようなものであった。
「その団体が、世論に訴えたり、国会議員に働きかけたりして、その病気の子らのための法律を制定しようとしたら、裁判官はその団体を脱退しなければならない」
そのとき私は、決してその団体を脱退するつもりはなかったし、その返答を聞いても私の気持ちは変わらなかった。ただ、こう思った。
「やってられんわ!」
(注1)岡口基一裁判官が、最近、民事訴訟プロパー以外のことについて書かれた2冊の本(まだうち1冊しか読めていないが)に、私が書こうとしていたことを書かれているようであることも、「先送り」に影響している。
(注2)これは、支部等を含む各地方庁に配属された新任判事補が、4か月間交代で東京に集められて研修を受けるという、33期までの10年間行われていた制度が、34期から改められたものだそうで、司法修習生として接した東京地裁(特に刑事部)で接した裁判官の一部の言動に辟易し、それを終える際、「二度と東京の土は踏むまじ」と詠んだ私にとって、非常にありがたいことであった。
(注3)その意味は、後に「梅棹忠夫の京都案内」という本を読んで合点がいった。つまり、京都(の街)の「おきて」は、生まれたときから京都(の街)に住んでいる人にしか身につかず、それが身についていない人は、京都人にとって、「田舎者」以外の何者でもないのである。
(注4)後に聞いたところによると、第三希望までに「広島」を書いたのは私を含め、同期で2人しかいなかったらしい。
(注5)そのときの資料を捨てた記憶はないから、転勤の際実家に送った荷物の中にあるはずだが、それらの荷物は大量で、整理できておらず、今、手元にはない。いずれ実家の荷物はきれいに片付けなければならないので、それを見つけた際には本項を書き直したい。
(注6)将来、司法修習生時代のことを書く際に詳細を述べようと思うが、私は青法協には加入していなかったものの、青法協の息が掛かっていると思われていた司法研修所の各クラスから選ばれたクラス連絡委員会主催の講演会等(いずれも非常に興味深いもので、特に民医連の肥田舜太郎さん(だった記憶である)の話を聞けたことは貴重であった)等に出席すると、裁判官に採用されないのではないかと思われていたらしく、会場に行くと、私のクラスの委員から「森脇は任官希望だろう。帰れ、帰れ」と言われ、私は、その委員が私が任官拒否されないようにと、私のことを思って言ってくれていることが分かりながらも、「なぜ帰らなきゃいけないんだ」と反論したことを記憶している。