広島弁護士会所属 福山市の弁護士森脇淳一

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弁護士の仕事(1)

2019.04.12

 最後にコラムを更新してから約3週間が経過した。その間に弁護士の生活(4)で御報告したホームページの改修をしていただいたが、少しは見やすくなったであろうか?
 さて、私が弁護士登録をしてからもうすぐ半年になろうとしている。
 弁護士になった当初、高い入会金を支払ったのに弁護士会は何の参考図書もくれないと、少し不満であったが、多分、司法修習を終えた「新卒」弁護士の登録を待ってのことだったと思うが、今年1月28日及び29日には、広島の弁護士会館でみっちり弁護士倫理や具体的な弁護士の仕事についての講義を受けるとともに、沢山資料を配付され、上記不満は私の全くの誤解であったと分かった。それら資料はとても多数、大部かつ緻密で、ロートルである私にとてもそれらに目を通すだけの体力や集中力はなく、むしろ宝の持ち腐れとなっている。また、3月中旬には、弁護士の先輩の法律相談を見学するという「研修」があり、それが終了したのを受けて(だと思うが)、先日初めて、福山市役所の無料法律相談当番を担当した。1人20分という枠があり、20分間でどれだけの相談を受けられるかと非常に不安だったが、案ずるよりなんとやら、相談者も20分間であることを充分意識しているためか、3時間で10組の相談者に対応し、ほとんどの方(1人の相談者の相談は、こちらから回答するというより、話されるだけ話して、ご自分で私が思う回答を述べられていた)が、私の回答に非常に感謝され、私も楽しかった。
 相変わらず、高額の着手金や報酬を頂くべきような事件の依頼はなく、事務所経費もまかなえるかどうかの状況は続いているが、徐々に舞い込む仕事の幅も広がり、弁護士らしくなってきたように思う。
 
 ところで、私の当初の計画では、このホームページに、「司法制度論」として(ア)後見制度についての続編、のほか、順次(イ)裁判員制度を中心とした刑事裁判の改革論及び(ウ)民事裁判実務の問題性について、「裁判官論」として(エ)家庭裁判所裁判官の資質論等についての私見を述べるつもりであった。
 しかし、(ア)については、先に書いたとおり、最高裁の方針転換によりちょっと書く意欲をそがれてしまい、また、他の論点についても、弁護士の仕事がおもしろくなってきたので、しばらく延期ということにしたいと思う。
 なお、上記話題について書こうとしていた事柄の構想のみ披瀝しておく。
 まず、(イ)については、刑事訴訟法どおりの刑事裁判をしてこなかった裁判官の責任により、裁判官のみによる刑事裁判が弁護士を中心とした国民から落第点をもらったという経緯はあったものの、妥協の産物として制度化された裁判員制度自体に無理がある上、現在行われている裁判員裁判は、私の考える本来なされるべき刑事裁判とは異なること(私は、広島高裁に勤務していた裁判員裁判実施前年である平成20年当時、私の裁判官評価権者であった白木広島高裁長官の御下問に対し、裁判員裁判についての私の考えの一端を披瀝したところ、その年の私の裁判官評価書に、私が、「施行される裁判員制度は中途半端な制度だからやりたくないと考えており、その意味で地方裁判所部総括適性には問題がある。」と書かれたが、たしかに「中途半端な制度」だとは述べたものの、私は、裁判員法に従い、最高裁事務局が想定している以外の運用で裁判員裁判を実施することには何ら異存はなかったのであるから、「やりたくない」との記述は白木長官の誤解であった)や、被害者参加制度より、むしろ被害者による附帯私訴を、また、アレインメントや事実認定と量刑の手続二分論をそれぞれ導入すべきことなどを述べたかった。
 次に、(ウ)については、主に新様式判決と裁判迅速化法が、判決を書くことがどちらかというと好きではない裁判官の判決レベルを低下させたのではないかという思い(私は、そもそも新様式判決が判決本来の要件を満たしているのか疑問である上、仮に満たしているとしても、それを上手く書く自信がないため、人事訴訟等立証責任の分配がない事件を除き、私の単独事件でいわゆる新様式判決を書いたことは一度もなく、ドイツの判決様式を参考にした判決~私は「森脇様式」と称していた~を書いていた)や、それと併せて、裁判官仲間がいう「筋」とか「座り」という言葉の本来の意味が取り違えられ、本来、国民が最も求めており、裁判に対する信頼をつなぎ止めるために是が非でも必要な「事案の真相」の探求という裁判における大切な役割が放棄され、単なる雰囲気や先入観で、それとは真逆の結論を「早期に」出すことに傾いているのではないかということを書きたかった。
 さらに、(エ)については、そもそも地裁裁判官にふさわしい適性と、家裁裁判官にふさわしい適性とは異なるから、養成制度を異にするか、すくなくとも専門性を持たせるべきではないかということを書く予定にしていた。
 これらの構想がいつ現実のものとなるか、今となっては分からないが、いつかはきちんと文章として残したいと考えている。